南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの生活 「土曜の朝の、ナンディ公設市場」

今朝、8時半頃の、我が家の前の青空。


今朝、9時頃の、ナンディ公設市場の入り口付近。


土曜の朝は、近海で取れた海産物などが、色々と売られてます。ウニは、こちらでは殻ごと火で焼いて中身を食べるみたいです。他の貝類は、ココナッツミルクで煮込んで食べます。


売り子のフィジー人のご婦人たち。


河豚みたいな魚で、肝ごと売られてます。


これは、淡水の小エビです。1皿、10F$(約620円)です。



ナマコも何種類か売られてます。




これは、マングローブ蟹で、一締め、100F$(約6200円)です。やはり、蟹は高いですね。


公設市場の土曜の朝は多くの種類の、海産物が売られていますので、もし買いたいのならなるべく早く市場に行く事をお進めします。


こちらでは、普通氷などを使用しませんので、だんだんと鮮度が落ちてきます。



次に続く・・・












フィジーの歴史 「インド人の入植」

フィジーでは、19世紀に入り、白人の入植が始まって以来、様々な大農園の経営が試みられていました。
南北戦争で綿の不足が深刻になった頃は、綿花の栽培が盛んに行われ、かなりの収益を上げていましたが、戦争が終わり好景気が過ぎた後は、コーヒーやカカオの栽培が試みられるなど試行錯誤が続いていたらしいです。


しかし、1872年頃よりサトウキビの栽培が始まると、瞬く間にフィジー全土は、サトウキビプランテーションの島となりました。


ところが、地元フィジー人は、長年にわたる内戦や白人の持ち込んだ疫病の蔓延で、人口そのものが減少していました。


そもそも、古来より海洋狩猟民族として自給自足に近い生活を営んできたフィジー人には、サトウキビ栽培やサトウキビ精製の労働に全く向いてなく、労働力としては殆ど期待できませんでした。


それで、英国政府はインド政府と交渉し、インドから年季契約労働者を導入することになりました。


1879年、479名の第一次移民が、サトウキビプランテーションの年季労働者としてインドから、フィジーに入植しました。
1916年に中止になるまでの間、約6万人のインド人がフィジーに移民したそうです。
彼らは、5年契約で働きましたが、さらに5年働けば帰国の旅費を支給される条件でした。
また、その後にフィジーに定住する権利も認められていたため、彼らのうち約4万人が、期間終了後も借地農としてフィジーに残留する道を選択しました。
また、20世紀に入る頃から、インド人労働者を相手にした商売を始めるためのインド人が自由移民として流入を始め、フィジー在住のインド人はその数を急激に増やしていきました。


1946年には初めてフィジー人の人口を超えました。1990年代までは、ほぼ五分五分の人口比が続いていました。


この間、1881年、ロツマ島が、英国の植民地になりました。



私が聞いたところによると、フィジーに入植したインド人は、インドのタミル地方のカーストの最下級だった小作農が大量に動員されフィジーに入植したそうです。


ちなみに現在の、フィジーの経済界を仕切っている富裕インド人の先祖は、20世紀に入り多額の資金を持ってフィジーに来た元々インドでも富裕の家族たちだそうです。


刈り取ったサトウキビを満載して、精製工場のあるラウトカ市まで運搬する、サトウキビ列車。



さて、皆さんは、1894年(明治27年)4月に、神戸港から305人の日本人移民が、サトウキビ農場の年季労働者として、フィジーのバヌアレブ島のランバサ町に渡った事はご存知でしょうか?
私は今回のブログの資料を検索するなかでこの事実を知りました。


明治時代の「日本人移民の失敗例」として記録されているようです。


この日本人移民は、同年9月頃より熱病(デング熱?)や酷い脚気に罹り多くの死者が出て、契約不履行の状態となり、翌年2月に全員引き揚げたと言う事です。


船中での死亡(25名)、現地での死亡(81名)、神戸到着直後死亡(5名)の記録が残されていて、計111名が死亡、無事生還が、194名だったそうです。


1894年と言うと、6月に日本軍が仁川に上陸し、7月には日本連合艦隊と清国艦隊が衝突し「日清戦争」が始まった年でもありました。


現在では、当時の様子は想像もつきませんが、当時フィジーのランバサ地域は、日本人にとって過酷な生活環境だったのではないかと思います。



100年以上の昔に、フィジーに日本人労働者が移民していた事には、多少の感動もありますが過酷な熱帯の環境に馴染めずに、死亡された日本人の方々に弔意の気持ちでいっぱいです。
















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フィジーの歴史 「時代の考察」

現在のフィジーは、世界的に有名なビーチリゾートの国として知られていますが、国として見れば、未だに世界の先進各国から色々な援助を受けながら国家を運営している、典型的な発展途上国です。


多くのの観光客が目にする観光ガイド本の解説は、ほとんどの場合、リゾートとしての魅力、神秘的に魅惑される自然の残る美しい島々、サンゴ礁などの紹介、料理の美味しいお店、お土産の紹介に多くを割いています。


この写真は、私のブログのプロフィールに使っている、ラウ諸島のコバルトブルーの海に浮かぶ、サンゴ礁の小島です。ゆっくり歩いても一周、約10分でしょうね。
揺れるボートの上から撮影したので、ちょっと斜めですね。


この写真は、昔、私が管理していた、同じくラウ諸島の無人島です。ひとの手が入ってないのでヤシの木と雑木が海岸線ぎりぎりまで迫っています。
僅かな空き地にテントを張って寝泊りします。(テントは、日本製の「小川テント」です。)



フィジーの歴史については、略歴が簡単に紹介されていて、今まで私もそれを単に読み過ごしていました。


今回、自分のブログを始めて、フィジーの歴史を書き始めましたが、近代史に登場して日も浅く、もともと文字を持たない海洋狩猟民族がそもそもの祖先だったとは思いますが、資源的にも世界から注目されることもなく考古学的な学術調査もまだ十分には進んでいない状態で、色々ネットなどを検索して調査しましたが、資料は本当に少ないです。


そんな状態の中で、表に出ている歴史の事実と多少異なる事柄や埋もれていた歴史も出てきましたので、なるべく取り上げてきました。


私が、フィジーに来た頃、スバで知り合った地元の友人に「フィジーは、19世紀の初めまで、6部族に分かれて何時も戦いが繰り返されていたらしいね」と聞くと、「え!違うよ多分、13部族位分かれていたと聞いたけど」と言われた事がありました。
その時は、「では、何時か誰かに聞いてみよう」と思っただけでした。


それで、バウ島のザコンバウが、フィジー王となった頃の時代解説の6部族説を採用し、私もそのように記述してきました。


今回、フィジーの歴史をブログに書いていく過程で、この事を思い出し、フィジー人の学識経験者に聞いてみると、USP(南太平洋大学)のサイトに公開している、「英国へフィジーの譲渡証書」( The Deed of Cession of Fiji to Great Britain ) の原文のコピーを教えて頂きました。


原文の書類が摩耗して消滅する前に、完全なコピーを保存しますと記されて、
1874年10月10日、オバラウ島のレブカで調印された原文のコピーが公開されていました。


譲渡証書の最後に、英国のエリザベス女王の代理、ヘラクレス・ロビンソン卿( Sir Hercules Robinson ) と、フィジー側の証人として、ビチ王(ザコンバウ)と他のハイ・チーフ(大酋長)計13名の名前と署名があります。


つまり、この13名が、当時、互いに戦っていた13部族の部族長(大酋長)たちですね。


フィジー側証人      
1. Cakobau R. Tui Viti and Vunivalu
2. Ma'afu
3. Tui Cakau
4. Ratu Epeli
5. Vakawalitabua Tui Bua
6. Savenaca
7. Esekele
8. B.V. Tui Dreketi
9. Ritova
10. Kato-nivere
11. Ratu Kini
12. Matanitobua
13. Nacagileve



トンガのラウ諸島征服将軍のマアフの名前が、2番目に記されているのが、当時のフィジーの状況を良く表わしていると思われます。
ちなみに私の嫁の一族は、3番目の「Tui Cakau」(タベウニ島と北部ラウ諸島、バヌアレブ島の一部が勢力圏で何度も、マアフの征服軍との攻防戦を経験して、なんとか守り切ったそうです。)の直系の一族です。
「Tui Cakau」 の意味は、「海洋王」と言うそうです。


ところで、フィジー王ザコンバウを最後まで悩ませ、英国に保護を申し入れる原因の一つであった、トンガのラウ諸島征服将軍、ラウ王のマアフは、フィジーが英国領となった後も、ラウ諸島に駐留し続け1881年2月、バヌアンバラブ島( Vanua Balavu ) のロマロマ村( Lomaloma )で死亡、トンガ駐留軍の本拠地、ラケンバ島( Lakeba )の、ツボウ村( Tubou ) に埋葬されました。


彼の死亡後、ラウ諸島のトンガ勢力は一気に力を失いましたが、今でもラウ諸島の幾つかの村に子孫が暮らしているそうです。
フィジーのラウ諸島は、トンガの戦略で、1830年代に最初にキリスト教の宣教師たちが、トンガ経由で上陸し、彼らの持ちこんだ西洋の文化で発展していたそうです。


私も仕事の関係で、何度もロマロマ村を訪ねましたが、最初に訪問した時には、以外に発展していて驚かされました。


私は、ボートで、ラケンバ島など、ラウ諸島の島々を訪問した事がありますが、初めて訪ねる島なのに島民が、私の名前を知っているのには驚かされました・・・


写真の右上の、タツノオトシゴみたいな形の島が、バヌアンバラブ島です、ロモロモ村は島の東海岸に位置している、かなり大きな村です。
右下に比較的大きな島が、ラケンバ島です。この島が、ラウ諸島の中心です。
ツボウ村は、西海岸に位置してます。


フィジー全図です。地図の右(東部分)のラウ諸島を、トンガに占領されていました。
ビチレブ島(本島)のフィジー人勢力は、かなりの危機感を感じて日々暮らしていた事でしょうね。
タベウニ島を占領されていれば、次は、バヌアンバラブ島が狙われていたでしょうね。


中央の、コロ海は何時も波が高く、荒れていました。私たちのエンジン付きのボートでも天候のチェックや波の状況では、結構大変な航海を経験しましたが・・・


当時の戦闘カヌーで海を渡り、攻めてくるとは途方もなく大きな勇気が必要だったと思います。



島国の場合、海の守りがいかに大切か本当に切実に感じますね。












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