南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「ビセイセイ村(Viseisei)」3

引き続き、村内の見学・・・


近代的な作りの、ちょっと豪華な住宅。


村内の、ミニマート。



酋長の一人だった方の住宅で、中を見学できるように開けてありました。上には上がれませんが・・・



上の2枚の写真の家は、前フィジー大統領イロイロ氏の自宅です。
建坪は大きいようですが、建物そのものは結構質素な材料で造られていました。


貫禄充分なフィジ人のご婦人、途中で呼びとめられて、どこから来たかとか色々質問されました。


ご夫人の、フィジー伝統的な作りの自宅。


隅の方に見えた、多分、一般のフィジー人の住宅。


最初に入場料の払い方などを説明してくれたご婦人、元マナ・アイランド・リゾートで働いている時に、2回も日本に旅行したそうです。典型的な陽気なフィジー人のご婦人です。
そして、私がナンディに戻るための、ローカルバスを止めてくれました。





フィジーを紹介するガイド本などは、ここ「ビセイセイ村」が、最初にフィジー人の祖先が上陸した場所と解説していますが、考古学的な根拠は未だ発表されていませんし、では何年前ぐらいかとなると、およそ8000年前、3000年前などと色々勝手に言ってるだけです。


西暦1500年頃の上陸ではとの説が、一番正しいと私は思います。
それで、ビチレブ島では、ここが最初のフィジー人の村の始まりとは思いますが・・・


実は、はるかそれ以上の昔、ラウ諸島には人々が住んでいたとの学説もあります。


現在、フィジー人と言われている人々は、DNAの調査研究で、ミクロネシア人、メラネシア人、ポリネシア人の血が複雑に混じり合ってきている事が分かっています。


ナタンドラ海岸で発見された、いわゆるラピタ人とは違う人々らしいです。


でも、はるか太古の昔、広大な太平洋の島々に居住していた人々が、遠く海を渡り交易し、交配してきた事を考えると、農耕民族にはない雄大なロマンを感じてきます・・・








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フィジーの歴史 「ビセイセイ村(Viseisei)」2

フィジーは、1874年10月に正式に、英国の植民地、いわゆる英国領になりましたが、英国はフィジーに「間接統治」と呼ばれるルールを適用し、フィジー人の伝統的社会組織と権力構造を基盤にして植民地経営を行いました。


つまり、大酋長(Hight Chief)を頂点に、酋長(Chief)たちと一般の人々という古来からの伝統習慣でフィジーを統治して行ったという事です。


21世紀の現在でも、この権力構造は、隠然として継続されています。フィジー人の村では、今でも酋長さんたちが治めています。


フィジーでは部族長クラスは、名前の前に「ラツ」(Ratu) という称号がつきます。
ラツの息子もラツの称号が付くので、日本の「殿様」「若様」という感じだと思います。
ちなみに、ラツの娘の称号はアンディ(Adi)です、日本の「姫様」という意味でしょう。


私の嫁も、一応、アンディですが・・・


村の海岸から、ブンダ・ポイント方向です、丁度満潮時で砂浜は波の下です。


こちら側が、ナンディ方向です。


さらに村の奥に進むと、広場にでました。


広場の奥にある多くのお墓。


この方は、ラツが名前に付いているので酋長の一人だったのでしょうね。


ひときわ目立つ大きな門構えの、歴代大酋長たちの墓地、一段と高く作られています。
門の右奥に、真新しい箱形のお墓が見えます。


これです。


実は、これが、フィジーの前大統領の、ラツ、ジョセファ・イロイロ(Ratu Josefa Iloilo) 氏のお墓です。
もちろん当時のビセイセイ村の最高位の大酋長さんでした。
2000年から、2009年まで、2期、第3代、第4代の大統領を務められました。
病気を理由に、2009年引退後、病気治療中の、2011年に死去されました。


裏に回ると、3年前亡くなった奥さんの墓地を、コンクリートで建設中の方々と出会いました。
フィジー人の一般人の場合、お葬式したその日に土葬して石などで囲っておいて、2~3年後に地上部にコンクリートで石棺を建設します。


墓地の奥にあるバナナの樹林、この広場の奥に幾つもの貧相な感じのバラック住宅が見えましたが多分この村以外の人々の住居と思われました。


広場から海岸側の方向の、パンの木の林。


水は見えませんが、小川みたいな所に植えられている、タロイモ。
タロイモは沢山の水を必要としますのでどこでも栽培は出来ません。



次に続きます・・・






















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フィジーの歴史 「ビセイセイ村( Viseisei )」

ナンディ国際空港に、午前中に到着した観光客たちが、午後のホテルのチェックインまでの間に半日観光を希望した場合、必ず訪れる観光のスポットに「ビセイセイ村」があります。


「ビセイセイ村」は、ナンディ国際空港からナンデイ湾にそってクイーンズ・ロードを、北に約10km行った、ブンダ・ポイント(Vuda Point) の手前の海岸にそった所に位置しています。


この「ビセイセイ村」は、大昔、最初のフィジアンの祖先が上陸した地としてされ、フィジアンの起源の村として絶大な力を持って来ました。村内にはかっての大酋長たちの大きなお墓がたくさん残ってます。
フィジーの歴代の政界人にも、この村出身の方がたくさんおられました。


2011年に亡くなった、前フィジー大統領イロイロ氏も、この村出身でお墓も村内にあります。


西暦500年頃、この村が始まったのではとの学説がありますが・・・


村のナンディ寄りにある入り口の、村人手作りの民芸品売り場。


でもまず最初に、民芸品売り場の前に置かれたこの箱に、村の入場料の、5F$を入れます。


陽気なフィジアンのご婦人。


入り口を入ったすぐの所にある、1840年代、ビチレブ島にイギリスの宣教師たちが初めて上陸した記念碑と説明されました。


ジョン・ウェスレイ教会(John Wesley Methodist Church) です、この教会で外国人も結婚式を挙げる事が出来るそうです。


村の大酋長のブレ、今は中を見学できませんが、現在は人は住んでないと思われます。


この家も典型的な、フィジー伝統様式で建てられていますが、屋根は茅葺でなく波板で葺かれてます。
この家も記念で保存されていると思われ、人は住んでません。


この家は屋根がフィジー様式ですが、現代の家で村人が住んでいます。



村の住宅街。


村内を散策中に出会った、村の子供たち。


木の皮を削いでいた女の子、煎じると風邪の民間薬になるとの事。


左右に見えてるのは、ブレッド・ツリー(パンの木)です。右奥はお墓。



これがパンの木の実、ブレッド・フルーツです。
主食の一部が、そこいら中に生えていて、何時でも収穫して食べられると言うのは、最高ですね。


1787年11月、後で有名になる「バウンティ号」がタヒチに向かってイギリスを出航したのは、このパンの木の苗を採集するためでした。


最初に南太平洋の島々に上陸した、欧州の宣教師たちが嘆いて切り倒したのは、この木です。


すなわち、何時でもどこでも主食(食料)が手に入るのは、人間の堕落の源だと・・・


私は、かって南太平洋の人々が、ヤシの木陰で、のんびりと暮していたのが、人間の堕落とは、到底思いませんが、逆に「南の楽園生活」ではなかったかと思います・・・




次に続く・・・














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