南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「時代の考察」

現在のフィジーは、世界的に有名なビーチリゾートの国として知られていますが、国として見れば、未だに世界の先進各国から色々な援助を受けながら国家を運営している、典型的な発展途上国です。


多くのの観光客が目にする観光ガイド本の解説は、ほとんどの場合、リゾートとしての魅力、神秘的に魅惑される自然の残る美しい島々、サンゴ礁などの紹介、料理の美味しいお店、お土産の紹介に多くを割いています。


この写真は、私のブログのプロフィールに使っている、ラウ諸島のコバルトブルーの海に浮かぶ、サンゴ礁の小島です。ゆっくり歩いても一周、約10分でしょうね。
揺れるボートの上から撮影したので、ちょっと斜めですね。


この写真は、昔、私が管理していた、同じくラウ諸島の無人島です。ひとの手が入ってないのでヤシの木と雑木が海岸線ぎりぎりまで迫っています。
僅かな空き地にテントを張って寝泊りします。(テントは、日本製の「小川テント」です。)



フィジーの歴史については、略歴が簡単に紹介されていて、今まで私もそれを単に読み過ごしていました。


今回、自分のブログを始めて、フィジーの歴史を書き始めましたが、近代史に登場して日も浅く、もともと文字を持たない海洋狩猟民族がそもそもの祖先だったとは思いますが、資源的にも世界から注目されることもなく考古学的な学術調査もまだ十分には進んでいない状態で、色々ネットなどを検索して調査しましたが、資料は本当に少ないです。


そんな状態の中で、表に出ている歴史の事実と多少異なる事柄や埋もれていた歴史も出てきましたので、なるべく取り上げてきました。


私が、フィジーに来た頃、スバで知り合った地元の友人に「フィジーは、19世紀の初めまで、6部族に分かれて何時も戦いが繰り返されていたらしいね」と聞くと、「え!違うよ多分、13部族位分かれていたと聞いたけど」と言われた事がありました。
その時は、「では、何時か誰かに聞いてみよう」と思っただけでした。


それで、バウ島のザコンバウが、フィジー王となった頃の時代解説の6部族説を採用し、私もそのように記述してきました。


今回、フィジーの歴史をブログに書いていく過程で、この事を思い出し、フィジー人の学識経験者に聞いてみると、USP(南太平洋大学)のサイトに公開している、「英国へフィジーの譲渡証書」( The Deed of Cession of Fiji to Great Britain ) の原文のコピーを教えて頂きました。


原文の書類が摩耗して消滅する前に、完全なコピーを保存しますと記されて、
1874年10月10日、オバラウ島のレブカで調印された原文のコピーが公開されていました。


譲渡証書の最後に、英国のエリザベス女王の代理、ヘラクレス・ロビンソン卿( Sir Hercules Robinson ) と、フィジー側の証人として、ビチ王(ザコンバウ)と他のハイ・チーフ(大酋長)計13名の名前と署名があります。


つまり、この13名が、当時、互いに戦っていた13部族の部族長(大酋長)たちですね。


フィジー側証人      
1. Cakobau R. Tui Viti and Vunivalu
2. Ma'afu
3. Tui Cakau
4. Ratu Epeli
5. Vakawalitabua Tui Bua
6. Savenaca
7. Esekele
8. B.V. Tui Dreketi
9. Ritova
10. Kato-nivere
11. Ratu Kini
12. Matanitobua
13. Nacagileve



トンガのラウ諸島征服将軍のマアフの名前が、2番目に記されているのが、当時のフィジーの状況を良く表わしていると思われます。
ちなみに私の嫁の一族は、3番目の「Tui Cakau」(タベウニ島と北部ラウ諸島、バヌアレブ島の一部が勢力圏で何度も、マアフの征服軍との攻防戦を経験して、なんとか守り切ったそうです。)の直系の一族です。
「Tui Cakau」 の意味は、「海洋王」と言うそうです。


ところで、フィジー王ザコンバウを最後まで悩ませ、英国に保護を申し入れる原因の一つであった、トンガのラウ諸島征服将軍、ラウ王のマアフは、フィジーが英国領となった後も、ラウ諸島に駐留し続け1881年2月、バヌアンバラブ島( Vanua Balavu ) のロマロマ村( Lomaloma )で死亡、トンガ駐留軍の本拠地、ラケンバ島( Lakeba )の、ツボウ村( Tubou ) に埋葬されました。


彼の死亡後、ラウ諸島のトンガ勢力は一気に力を失いましたが、今でもラウ諸島の幾つかの村に子孫が暮らしているそうです。
フィジーのラウ諸島は、トンガの戦略で、1830年代に最初にキリスト教の宣教師たちが、トンガ経由で上陸し、彼らの持ちこんだ西洋の文化で発展していたそうです。


私も仕事の関係で、何度もロマロマ村を訪ねましたが、最初に訪問した時には、以外に発展していて驚かされました。


私は、ボートで、ラケンバ島など、ラウ諸島の島々を訪問した事がありますが、初めて訪ねる島なのに島民が、私の名前を知っているのには驚かされました・・・


写真の右上の、タツノオトシゴみたいな形の島が、バヌアンバラブ島です、ロモロモ村は島の東海岸に位置している、かなり大きな村です。
右下に比較的大きな島が、ラケンバ島です。この島が、ラウ諸島の中心です。
ツボウ村は、西海岸に位置してます。


フィジー全図です。地図の右(東部分)のラウ諸島を、トンガに占領されていました。
ビチレブ島(本島)のフィジー人勢力は、かなりの危機感を感じて日々暮らしていた事でしょうね。
タベウニ島を占領されていれば、次は、バヌアンバラブ島が狙われていたでしょうね。


中央の、コロ海は何時も波が高く、荒れていました。私たちのエンジン付きのボートでも天候のチェックや波の状況では、結構大変な航海を経験しましたが・・・


当時の戦闘カヌーで海を渡り、攻めてくるとは途方もなく大きな勇気が必要だったと思います。



島国の場合、海の守りがいかに大切か本当に切実に感じますね。












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