南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「インド人の入植」

フィジーでは、19世紀に入り、白人の入植が始まって以来、様々な大農園の経営が試みられていました。
南北戦争で綿の不足が深刻になった頃は、綿花の栽培が盛んに行われ、かなりの収益を上げていましたが、戦争が終わり好景気が過ぎた後は、コーヒーやカカオの栽培が試みられるなど試行錯誤が続いていたらしいです。


しかし、1872年頃よりサトウキビの栽培が始まると、瞬く間にフィジー全土は、サトウキビプランテーションの島となりました。


ところが、地元フィジー人は、長年にわたる内戦や白人の持ち込んだ疫病の蔓延で、人口そのものが減少していました。


そもそも、古来より海洋狩猟民族として自給自足に近い生活を営んできたフィジー人には、サトウキビ栽培やサトウキビ精製の労働に全く向いてなく、労働力としては殆ど期待できませんでした。


それで、英国政府はインド政府と交渉し、インドから年季契約労働者を導入することになりました。


1879年、479名の第一次移民が、サトウキビプランテーションの年季労働者としてインドから、フィジーに入植しました。
1916年に中止になるまでの間、約6万人のインド人がフィジーに移民したそうです。
彼らは、5年契約で働きましたが、さらに5年働けば帰国の旅費を支給される条件でした。
また、その後にフィジーに定住する権利も認められていたため、彼らのうち約4万人が、期間終了後も借地農としてフィジーに残留する道を選択しました。
また、20世紀に入る頃から、インド人労働者を相手にした商売を始めるためのインド人が自由移民として流入を始め、フィジー在住のインド人はその数を急激に増やしていきました。


1946年には初めてフィジー人の人口を超えました。1990年代までは、ほぼ五分五分の人口比が続いていました。


この間、1881年、ロツマ島が、英国の植民地になりました。



私が聞いたところによると、フィジーに入植したインド人は、インドのタミル地方のカーストの最下級だった小作農が大量に動員されフィジーに入植したそうです。


ちなみに現在の、フィジーの経済界を仕切っている富裕インド人の先祖は、20世紀に入り多額の資金を持ってフィジーに来た元々インドでも富裕の家族たちだそうです。


刈り取ったサトウキビを満載して、精製工場のあるラウトカ市まで運搬する、サトウキビ列車。



さて、皆さんは、1894年(明治27年)4月に、神戸港から305人の日本人移民が、サトウキビ農場の年季労働者として、フィジーのバヌアレブ島のランバサ町に渡った事はご存知でしょうか?
私は今回のブログの資料を検索するなかでこの事実を知りました。


明治時代の「日本人移民の失敗例」として記録されているようです。


この日本人移民は、同年9月頃より熱病(デング熱?)や酷い脚気に罹り多くの死者が出て、契約不履行の状態となり、翌年2月に全員引き揚げたと言う事です。


船中での死亡(25名)、現地での死亡(81名)、神戸到着直後死亡(5名)の記録が残されていて、計111名が死亡、無事生還が、194名だったそうです。


1894年と言うと、6月に日本軍が仁川に上陸し、7月には日本連合艦隊と清国艦隊が衝突し「日清戦争」が始まった年でもありました。


現在では、当時の様子は想像もつきませんが、当時フィジーのランバサ地域は、日本人にとって過酷な生活環境だったのではないかと思います。



100年以上の昔に、フィジーに日本人労働者が移民していた事には、多少の感動もありますが過酷な熱帯の環境に馴染めずに、死亡された日本人の方々に弔意の気持ちでいっぱいです。
















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