フィジーの歴史 「フィジー王国から、英国植民地へ」
1865年
フィジーの歴史上初めて、統一同盟政府を作る提案がなされ、7人の大首長が署名し、最初の盟主には、ザコンバウ(Ratu Cakobau) が選ばれました。
ザコンバウは、二年二期の間盟主を務めた。しかし、その後マアフ(Ma'af) が次の盟主の座に就こうとした時に、他の首長が反対して、第一次同盟政府は崩壊しました。
もしこの時に、トンガ王国から派遣されラウ諸島を征服し、ラウ王を自称していた、マアフが盟主に就いていたとしたら、その後の「フィジー」は存在しなかったもしれません。
その後、数度の試行錯誤が繰り返されました。
1871年
オバラウ島(Ovalau) のレブカ(Levuka) で、ザコンバウは、戴冠式を催し、フィジー王
となりました。この時、イギリスは、ザコンバウをフィジー王として承認しました。
その後、ザコンバウ王は西洋式の政府を設立しようと試みましたが、この時既に政治の実権は、数人のイギリス人に握られており、ザコンバウが、統一国家としてフィジーを運営する事は事実上不可能でした。
それに、1848年に、アメリカの海軍演習による流れ弾が被弾したアメリカ領事ジョン・ブラウン・ウィリアムが所有する商店に対する地元民の略奪、続いて1855年に発生した、ザコンバウの部下によるウィリアム邸襲撃、放火被害に対し、アメリカ政府は、両方の事件について合計損害賠償金、4万5千ドル(現在価値1億2千万ドル)の支払いと幾つかの島の担保を要求し、どちらの時も軍艦を島に派遣して威嚇し執拗に迫っていました。
相変わらず続く、トンガ王国のラウ王マアフを使っての圧力。
これら多くの問題解決に窮したザコンバウは、ドイツに保護を申し出るも拒否され、首長会議の結果、イギリスに無償割譲の申し入れをしました。
最初はイギリスは、この申し入れに難色を示していたそうです。
1874年10月10日
イギリスが、割譲を承認して、フィジーは正式に、イギリス植民地となりました。
1820年頃から、欧州商人たちの居留地と交易の港町としてして発展していた、オバラウ島のレブカが、そのままイギリスのフィジー植民地の首都と定められました。
レブカは、1882年に、スバに遷都されるまで繁栄しましたが、その後ゆっくりと衰退して、当時のままに残された植民地時代のビーチ・ストリートとその周辺が、2013年「レブカの歴史的港町」としてユネスコの世界遺産に登録されました。
ビーチ・ストリート。
ビーチ・ストリートから見えるセイクリッド教会の時計台。
セイクリッド・ハート教会(Sacred heart Church) と石造りの時計台(1866年建造)
1874年、フィジーが英国植民地となった条約が結ばれた場所、領土割譲の跡(Cession Site) 。
3つの台座にそれぞれ石が載せられており、これが領土割譲の石(Cession Stones)として知られています。奥の建物は、ブレ・スタイルの地方議会場(Provincial Bure) です。
私としては、トンガ王国に征服されずに良かったと思いますが、その後に辿る、フィジーの歴史の困難な道程の出発点とも考えられます。