フィジーの歴史「民主化までの歩み」(2)
2009年9月:バイニマラマ首相は「変化のための戦略的枠組み」(A Strategic
Framework for Change) と題された、民主化へのロードマップを発表。
2011年2月:国名を「フィジー共和国」(Republic of Fiji) と改称。
通称 Fiji 、フィジー
2012年 :7月頃より、各地で2014年の総選挙に向けての選挙人名簿
作成のため、投票者用IDカードの作成作業がスタート。
2013年9月:新憲法が公布。
2014年1月:総選挙に向けた、選挙委員会委員を任命。
同 年2月16日:太平洋諸島フォーラム(PIF)を代表、オーストラリア、
ニュージランド、パプア・ニューギニア、ツバル、バヌアツの
外相などがフィジーを訪問、選挙準備の状況につき意見交換の
会談が行われた。
同 年3月5日:バニイマラマ首相は、国軍司令官を辞任。(法により軍関係者
は、政党活動を禁止されているため。)
バイニマラマ首相は、文民として総選挙に臨むべく、新政党
「フィジー・ファースト」(Fiji First) を結成、登録。
同 年3月31日:バイニマラマ軍司令官の辞任を受けて、オーストラリア
とニュージランドが、フィジーへの渡航制限を解除。
しかし、この頃には渡航制限に関係なく両国からフィジーへの
観光客は大幅に増加していました。
同 年4月:総選挙の日取りが、9月17日(水)と発表。
その後すぐ、投票日を、祝日とすることが決定。
2014年9月17日:フィジー総選挙が無事に実施される。
日本やオーストラリアなど14カ国・地域が、国際選挙
監視要員を派遣、当日の選挙を監視。
バイニマラマ暫定首相率いる政党「フィジー・ファースト」
が大勝。これにより民政復帰。
投票率83.97%と発表。
当日、朝早くから我が地区の投票所になった「ナマカ・パブリック・スクール」に並ぶ、有権者の長い列。
名前の、アルファベット順に分けられた教室の投票所。
コバルト色の、ベストを着た投票所の係員。
これは、別の地区の投票所、全国どこの投票所もこんな感じだったそうです。
フィジー国民の総選挙に対する関心の高さの現れでしょうね。
フィジー人、インド系、ロツマ人、東洋系、大洋州系など複雑な人種の有権者たちが何の騒動もなく静かに列を作って待っていました。
投票中の、バニイマラマ暫定政権首相。
同 年9月26日:英連邦がフィジーの除名措置を解除、フィジーの英連邦
復帰。
今回の選挙は、「バニイマラマ氏の改革路線に対する国民の信任投票」(南太平洋大学のサンドラ・タルト准教授。)の側面が強いと考えられます。
多民族主義を掲げる同氏は、先住民フィジー系住民の優越的な地位を見直し、能力主義の人材登用を推進した。義務教育の無料化や道路インフラ改善などに力を入れ、経済界で有力なインド系などの支持を得ての結果とも考えられます。
もともと2000年の文民クーデターの時も、フィジーから逃げ出せない多くの資産や事業を抱えた富裕のインド系は、陰ながらフィジーの政権をコントロールしていたとも言われています・・・
今回は堂々と「フィジー・ファースト」を支持し、援助し議員にも多くのインド系人材を送り込みました。
民主主義の先進国を標榜し、世界の発展途上国に、上から目線で「ODA」とやらで、お金を撒き散らしている東洋の島国の選挙の投票率から比べたら、フィジーの総選挙投票率、83.97%は、どう映っているのでしょうか?