南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史「2000年5月の文民クーデター」(1)

2000年5月19日、スバで、フィジーにとっては3度目となる、いわゆる「文民クーデター」が、勃発しました。


その朝、小さな異変は、島の事務所でも起きていました。
さっきまで通じていた「電話」がいきなり沈黙しましたが、よくある事なので気にせず回復を待っていました。


お昼すぎに隣の島から、1隻の小型ボートがやって来ました。


来訪者は、挨拶もほどほどに、村の自宅でFMラジオ(この辺はTVの電波は届きませんし、隣の島には電気もありません)を聴いていたら、今朝スバで、クーデターが勃発し、クーデターの武装団がラジオ局を占拠して、全フィジーのフィジー人に向けて蜂起を呼び掛けているとの事でした。


すぐに、全スタッフを呼んで、臨時休業とし全員、隣の島の村に戻しました。
島に滞在するスタッフに各施設、客室などの点検を指示して、今後の対策を考えました。


翌日、隣の島の酋長とスタッフのリーダーが来訪してきました。


昨日、村の酋長たちと長老で長時間会議して、結論は、私の島の事業は通常通り続けて欲しいとの事でした。
昨日のクーデターについては自分たちは何も聞かされていないとも言います。


それで、私は快諾しましたが、スバの騒動の成り行きは見守りたいとも告げました。


私は、約2週間休暇で日本に帰国していて、3日前にスバから島に戻ったばかりの時でした。


スバの会計事務所で書類関係の仕事を終えて、チャーター機で島に戻り、留守番のLA本社から来ていたアメリカ人の方を、私が乗ってきたチャーター機でスバに送り、彼はクーデターの1日前にナンディからLAに戻った事を後から知りましたが・・・


やっと2週間が過ぎる頃、電話が復活し、スバの日本大使館を通じて「文民クーデター」の様子が伝わって来ました。
その情報によると、スバでクーデターが勃発すると、ほぼ同時にフィジー系住民による、スバの街全域で主にインド系の商店の打ち壊しての略奪や放火が始まって戦場のようになったとの事でした。
それに同日付けで日本の外務省から、フィジー全土に「危険度2」スバ地域に「危険度3」が発令されて、スバ地域の日本人は大使館の一部職員を残して、ナンディに撤退するか、日本に帰国したとの事でした。
私も撤退を促されましたが、島を維持する必要から取りあえず様子を見る事を告げました。
このころ、フィジー国軍により、スバ地区(スバ市、ナウソリ町、ラミ町)に「戒厳令」が宣告され、夜間外出禁止令も発令されていました。


電話が復活してすぐに、LA本社と連絡し今後の対策を協議していました。
本社の意見も様子を見ながら、最終判断は私に任せるとの事でした。


ちょうどリゾートは改築工事のため、お客さんを入れてない状況でしたのでラッキーでしたが・・・



私は、1999年3月初旬頃、初めてフィジーに来て島にも2週間ほど下見に滞在し、一度日本に戻り、同年5月に正式にフィジーの総支配人として赴任しました。
私が滞在したリゾートの島と周辺の3島と合わせて、4島の管理運営を任されました。


この「文民クーデーター」は、仕事もやっと慣れてきた、丁度1年後に発生しました。



フィジーでは、1998年7月発効の修正憲法に基づいて、1999年5月に、総選挙が実施されインド系のチョードリー(Mahendra Chaudhry) が党首を務めるフィジー労働党が勝利しました。
フィジー労働党は、それぞれフィジー系が党首のフィジー系協会党、国民統一党と連立政権を組み、首相には独立以来、初のインド系となるチョードリーが就任し、閣僚の3分の2のポストにはフィジ系がつきました。
しかし、程なくして、新政権はインド系よりの政策との批判から、反政府運動が各地で始まりだしました。
そうした中、政権発足後1周年を記念した国会開催中の、5月19日、フィジー系民間人スぺイト(George Speight) が武装団を率いて国会に侵入し、チョードリー首相はじめ閣僚たちを拘束しました。


後から聞いた話によると、このクーデター勃発は、フィジー系住民は事前に知っており、朝早くから村を出て、スバの街近くに待機し、反政府運動のデモ隊と呼応して街に乱入したそうです・・・



次に続く・・・

































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