フィジーの歴史「独立後の苦悩」
1970年に、英国植民地から、フィジーは悲願の独立を果たしますが、これには砂糖キビプランテーションを基幹産業として確立させた、インド人たちの経済活動が大きな原動力となった事は事実です。
さらに20世紀初め頃より、自由移民として富裕なインド人たちが、投資家して各種の分野で産業を育ててきました。
すでに独立前には、フィジーのインド人は総人口の半数近くに達していました。
これが現在の人種対立につながろうとは、のんびり暮らしていたフィジー人たちには想像もつかない事でした・・・
独立後、インド人たちは、インド系フィジー人と呼ばれる事となりました。
1987年4月:総選挙の結果、連立政権のバヴァドラ内閣(バヴァドラ首相は
フィジー系でしたが、閣僚の約半数がインド系の内閣。)が誕生。
同 年5月、9月:シティベニ・ランブカ陸軍中佐を中心とした軍部によるクー
デターにより、フィジー共和国を宣言。
同 年10月:英国がフィジー共和国を英連邦より除名。
同 月:ロツマ島出身の空手家で、王位を自称していたヘンリー・
ギブソンが、移住先のニュージランドで、ロツマ島の独立を宣言。
同 年12月:フィジー国軍の、ロツマ島上陸で鎮圧される。
同 年12月:カミセセ・マラ首相のもと軍政より民政に移行。
1990年7月:フィジー系の憲法公布。
1997年9月:改正憲法公布、英連邦に再び加盟。
1998年7月:修正憲法発効。国名を、フィジー諸島共和国に変更。
1999年5月:総選挙により、初のインド系マヘンドラ・チョードリー首相就任。
労働党を中心とする政権誕生。
2000年5月:フィジー人の実業家、ジョージ・スぺイト率いる武装集団が、
チョードリー首相及び国会議員を多数を人質に国会議事堂を、
約2カ月占拠(国会占領事件)。
2週間後、フィジー国軍が、スバ市、ラミ町、ナウソリ町に戒厳令を
宣告し、午後8時以降の夜間外出禁止令を同時に発令。
このように、フィジーでは近代になるとともにフィジー人とインド系の人種間の確執が表面化し、インド系の政治的な力が増すと、クーデターで潰されると言う繰り返しを行ってきました。
フィジーの経済はほぼインド系に牛耳られているのに、政治にまでインド系の影響が及んでくると、フィジー人の危機感が増してくるのでしょうね。
さすが、2000年5月のスぺイドが率いた武装集団の国会占拠事件の後、インド系の人々のフィジー脱出が相次ぎ、当時均衡していた人口比が、現在インド系が、37%に落ち込んだそうです。