南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 番外編「バナバ民族の悲劇」

皆さんは、ハワイとオーストラリアのほぼ中央に位置する英名;オーシャン(Ocean) 島をご存知でしょうか?
日本では「太洋島」と呼ばれていた赤道直下の太平洋の小さなこの島の人々は、島をバナバ(Banaba) 島と呼び、自分たちをバナバン(Banaban) といってます。





現在のバナバ島。島の内陸部全体が、燐鉱石の採掘されつくされた跡で草ぐらいしか生えないほぼ不毛地帯となっています。


1900年に、純粋な燐酸塩でバナバ島が覆われているということが発見されました。
この運命的な発見は、その後島で始まった燐鉱石採掘によってもたらされた、「バナバ民族の悲劇」の始まりでもありました。


燐鉱石の採掘は、英国・オーストラリア・ニュージランドの政府国策会社によって開始されました。


第二次大戦の間、日本軍は採掘作業を引き継ぐ目的で、バナバ島に軍事進攻し占領しました。
日本軍は、採掘の邪魔としてバナバ民族を他の太平洋の島に全員を強制移住させました。


大戦後、バナバ民族は英国の植民地政府より、彼らが故郷のバナバ島に戻る事は出来ないと言われました。
植民地政府は、豊富な燐鉱石を継続して採掘するために、日本軍の侵略破壊工作を誇張した嘘をバナバ民族に伝え、もう戻れないし、住むことも出来ないと言ったのです。


1945年12月15日、バナバ民族は、連合国と植民地政府により2000マイル離れた、現フィジー共和国のランビ (Rabi) 島に強制移住させられました。
軍用テントと僅かばかりの食料以外には、全くのサポートもなく捨てられたのです。


将来、バナバ島への再訪、バナバ島は彼らに土地の権利があり、将来は戻れると確約はされましたが。


フィジーのランビ(Rabi) 島へ強制移住直後のバナバ民族の軍用テント村。


フィジーで3番目に大きなタベウニ島の、すぐ北に位置する、ランビ島。
ちなみに、ランビのすぐ南西のキオア(Kioa) 島には、ツバルからの移住者の村があります。


私も、フィジーに来た当時、ランビ島には、キリバスからの移住者の村があるとは聞いていましたが、植民地政府により故郷を追われて、強制移住させられた、バナバ民族とは知りませんでした。


1979年11月、ついにバナバ島の燐鉱石がすべて掘り尽くされました。バナバ民族の財産資源であった燐鉱石は、その利益を手放さなかった独立直後の、キリバス共和国によって最期の出荷がなされました。
そしてまた、バナバ島は放置され、キリバス政府からの関心も人々の心からも忘れられようとしています。
キリバス共和国からも遠く離れた絶海の孤島の独自の文化と言語持っていたバナバ民族は、祖先の地から遠く離れた、フィジーのランビ島で忘れ去られそうになりながら生き抜く壮絶な戦いを現在も続けています。


バナバ人の民族衣装。



子供たちに受け継がれる、バナバ民族の伝統の踊り。



燐鉱石採掘にからみ、先進国の利益追求のためだけに、小さな民族が翻弄され、それに日本も深く関わりながら自分たちは、戦後70年、「憲法9条」と「アメリカ軍」にぬくぬくと守られながら戦後はもう終わったなどと天下泰平を決め込んでいますが、世界にはバナバ民族のように、未だ戦後が終わらない方々がいて非常に厳しい生活を強いられている事を知ってほしいと思います。


今回、フィジーの歴史資料を検索中にバナバ民族の悲劇を知りました。


彼らが、フィジーのランビ島(他のフィジーの島と一緒で電気も水道設備もないところです)で細々と暮らし、それに日本が深くかかわっていた事を知り、現在の日本の国民の贅沢な生活環境と比較して何とも言えない恥ずかしさを感じています・・・


現在、オーストラリアや日本のNPO法人が協力して援助活動をされているようですが、バナバ島の環境破壊に関わり、燐鉱石で莫大な利益を上げて発展してきた、英国・オーストラリア・ニュージランド・日本が国を挙げて、バナバ島の環境を整備し、ランビ島のバナバ民族が故郷に一日でも早く戻れるように努力するべきだと、私は深く思いますが・・・

















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