南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「フィジーの食人習俗」

前回の最後に触れたように、キリスト教が広まる前、フィジーやパプアニューギニアを始め、南太平洋全域に、食人(カニバリズム)の習慣がありました。


特に当時のフィジーでは、約6部族の間で勢力争いの戦いが、日常的に繰り広げられていて、勝った方の部族が殺した相手の戦士の勇気ある魂を自分たちに取り入れる目的で食べていたそうですが・・・


キャプテン・クックの航海記にも、訪ねた島々での食人や生贄の風習を目撃した事が記録されています。
でも、「食人」で検索すると、人間の歴史が始まって以来から近代に至るまで、世界中で行われていたことが分かります。


でも何故か、フィジーの食人習俗が有名ですが、これについては膨大な記録が残されているからです。


フィジー人にとってカニバリズムという行為そのものが、心躍る祝宴と饗宴の機会だったのではと推測する人もいます。


フィジーにヨーロッパから派遣された、キリスト教宣教師の報告書の中にも、食人に関しての記述が沢山あるそうです。


この写真を始め、何枚ものフィジー人の食人の写真が今でも残っています。


19世紀の初めから南太平洋にヨーロッパから布教に派遣された宣教師たちが何人も殺害され食べられた事を、生き残った宣教師が、ヨーロッパの本部に報告していたそうです。


1867年には、フィジーでイギリス人宣教師トマス・ベイカーが殺害されて食べられた事がありました。
ただし、これには後日談があり、その後、村に不幸ばかりが続くと信じた村人たちが、2003年11月、137年前に殺して食した宣教師の子孫にフィジーまで出向いてもらい、謝罪する儀式を催しました。


この写真は、フィジーの博物館に展示されている、調理した人間を食べる時の特別なフォークです。


Wikipediaによると、「最も多くの人間を食べた食人種」としてギネス世界記録に、フィジーの本島の北部、ラキラキの大酋長、Ratu Udre Udre の記録で、一生の間に872人食したと記されているそうです。
本人は、1000人食べると不死の体になると信じていたそうで、この行為は、キリスト教が広まって来ても、彼が死ぬまで続けられたそうです。
ラキラキの、彼の村のお墓の回りには、872個の石が飾られているそうです。


現在の、フィジー人は、体を張ったキリスト教の宣教師たちの努力で、ほぼ100%キリスト教徒です。
日曜日には、多くのフィジー人が家族で教会に出かけますし、普通の日でも、夕方からバイブル・スタディという勉強会が各地で開かれています。


南太平洋地域での日常的な食人については、蛋白源となるような大型の獣がいなかったという学者の説もありますが・・・


でも、皆さん安心して下さい、今ではフィジーの人々は、世界からの観光客を「南の楽園」に来たんだと楽しませるような、いつも笑顔で、明るく親切な人々です。











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フィジーの歴史 「ヨーロッパ人との出会い」

各種のガイドブックでは、フィジーとヨーロッパ人との最初の出会いは、1643年のタスマンのフィジーへの到達となっていますが、フィジーのロツマ島の発見がさらに古いので、それから書き始めます。


「1606年」
ポルトガルの船乗り、ペドロ・フェルナンデス・ド・キロス (1560?~1614)が、幻の南方大陸「テラ・アウストラリス」(Terra Australis) の探検航海のため、スペインの「サン・ペドロ・パウロ号」で、1605年に、ペルーのカヤオ港から出航、ピトケアン諸島を経てさらに西に向かう途中に、現在の「ロツマ島」を発見し、ツアモコ島(Tuamaco) と命名しました。
その後さらに西に進み、ニューへブリデス諸島(現在のバヌアツ)に到達しました。


ロツマ島(Rotuma)は、ビチレブ島(本島)のナンディより、北に500km離れた、およそ東経177度、南緯12度30分に位置します。ちなみに、ナンディは、南緯17度50分です。


「1643年」
オランダの航海者、探検家の、アベル・ヤンスゾーン・タスマン (1603~1659)が、オランダ東インド会社の命を受け、幻の南方大陸探索の航海に、へームスケルク号とセーハーン号の2隻でバタビア(現在のジャカルタ)を出航し、オーストラリア南東方で、タスマニア島を発見した後、トンガまで到達しその後、フィジー諸島を通過している時に、フィジー諸島最北端にある珊瑚礁のリーフに船が乗り上げ座礁しましたが、なんとか北部の島(Vanua Levu) にたどりつき上陸して船を修理しました。


この写真の右上の、どれかのリーフで船が座礁し、左の大きな島(Vanua Levu) に上陸して船を修理したものと思われます。島のどこに上陸したのかは不明です。


船の修理後、ニューギニア方面に航海を続け、ビスマーク諸島を発見したのちバタビアへ無事到着しました。


「1774年」
イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図制作者、ジェームス・クック(1728~1779)、通称 キャプテン・クックが、英国軍艦レゾリューション号で、第二回目(1772年~1775年)の南方大陸探索航海で南極圏から南太平洋を探索中に、フィジーの東ラウ諸島のヴァトア島(Vatoa) に上陸、調査しました。


写真右上の小さな島が、ヴァトア島(Vatoa) です。西経178度15分、南緯19度45分に位置します。


これが、フィジー全図ですが、1606年のキロスの発見したロツマ島は最北端の島、1643年のタスマンはバヌアレブ島の最北部、1774年のキャプテン・クックは、最南端に近いヴァトア島を発見し上陸は果たしましたが、フィジー全土の踏査するまでには至りませんでした。



1789年4月28日、英国海軍史上に名を残す「バウンティ号の反乱」が起きたのは、トンガの近くフレンドリー諸島北西端タフォア島の西方を航行中のことでした。
首謀者は、航海長属のフレッチャー・クリスチャンで反乱者は25名、彼らはブライ船長以下19名を小型のボートに移して海上に放棄してしまいました。


彼らは、困難を乗り越え48日間に約6480kmを漂流し、6月14日、ようやくマレー群島のチモール島に辿り着きました。
ブライ船長は、漂流中にも航海日誌を毎日つけて、フィジー沖を通過しながらビチレブ島(フィジーの本島)を含む39の島々を確認しました。
この確認をもとにブライ船長は、フィジー諸島の最初の地図を作成しました。


その後、何人かの航海者たちによりフィジーのすべての島々が確認されましたが、ヨーロッパの人々にとって、フィジー諸島に住む人々は「凶暴」で「食人種」であるとされて、ヨーロッパ人の入植が始まるのは、さらに半世紀後の19世紀初めとされています。
















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フィジーの歴史 「黎明期」

Wikipedia のフィジーの項の、歴史によると、
約8000年前、この地にメラネシア系パプア人が住み着いた・・・
と記述がありますが、その考古学的な根拠を探しましたが今のところ見つかりません。


国立民俗博物館によれば、人類は大きく2回にわたって東南アジアからオセアニアへ移動した。
その最初の移動が、6万年前~3万5千年前で、東南アジア方面(東南アジアの島々や東アジア大陸)から、現在のオーストラリアやニューギニアの内陸部や沿岸部で住み始めたのは、オーストラロイド・メラネシア系(オーストラロイド)の人々であったといわれている。
さらにこの人々が、海を渡り各島へ移住して行ったのは、約3万5千年前のことといわれ、それを示す証拠として、同時代の有袋類のクスクスや黒曜石がソロモン諸島までの島々で多数出土していると解説しています。
多分、その後数千年を経て、一部の人々が、フィジーに到達していたとは考えられますが・・・


次に、紀元前1300年以前と推定される土器類がビチレブ(Viti Levu)島から発掘されていると記述されています。
「地球の歩き方」’13~’14のフィジーの、歴史の説明(P300)でも、フィジーに最初に人が住み始めたのは、紀元前1300年頃とされている。と記述されてます。


この説については、フィジーのビチレブ島(本島)のナタンドラ(Natadora)海岸、ツヴァ(Tuva)川の河口、ボウレワ(Bourewa)で発見された貝塚遺跡の考古学調査(南太平洋大学とスバ博物館により、2005年6~7月に実施)において、16体の人骨と大量の土器、石器、貝製品の破片などが発掘されました。


年代等の詳細な測定の結果、本遺跡は、ラピタ人と命名されている人々の居住遺跡(貝塚遺跡)であり、発掘された土器の一部はラピタ式土器であり、周辺地域(Qoqo遺跡、Rove遺跡、Waikereiro遺跡など)でも最古(約3000年前以上)の遺跡である事が判明しました。


これが、フィジー、ボウレワ遺跡で発掘されたラピタ式土器の破片。
現在、鹿児島国際大学の考古学ミュージアムで保管、研究がなされています。


ナタンドラ・ビーチの現在の風景。


”世界の美しい海岸10選”にも選ばれた事がある、ビチレブ島で一番美しい海岸「ナタンドラ・ビーチ」の南の端にある、ツヴァ川河口に、約3000年前以上昔に人々が暮らしていたとは、はるか太古のロマンを感じますね・・・


このラピタ人と呼ばれる人々は、人類史上初めて遠洋航海(その航海技術は、「ウエイファインディング」と呼ばれています。)を実施し、太平洋の島々に住みついたと思われる民族で、そのルーツは不明ですが、5000~6000年前の台湾、中国南部のオーストロネシア人かもしれないと言われています。
この人々の移動が、国立民俗博物館の言う、オセアニアにおける2回目の大きな人類の移動で、最初に南に移動しビスマルク諸島に住みつき、さらに東に海を渡り、島伝いに移動を始め、フィジー、トンガ、サモアを経て、イースター島まで、さらに東に進み南アメリカに達したのではないかと推測されています。
南アメリカ原産の、サツマイモが南太平洋にかなり古くから栽培されているのは当時の交流の産物と考えられるそうです。


ラピタ人は、現在ポリネシア人と呼ばれている人々の遠い祖先だと考えられています。


日本の縄文人、縄文土器との関係も推測されています。


ただし、この当時のフィジーに住んでいた人々は、現在ニューカレドニアに住んでいるメラネシア人と同じとされ、メラネシア、ポリネシアの混血とされる現在のフィジー民族は、その後に形成されたものと推測されているそうです。


















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