南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「白人の入植とキリスト教の布教」

話は少し前後しますが、


19世紀初頭、フィジーに白檀が発見され、その交易のため多くの欧州系の商人たちがフィジーに到来しました。他方、難破船の乗組員やオーストラリアからの脱走囚などもフィジーに流れ着き、定住する者もいました。


1804年、オバラウ島に初めての白人居留地が建設されました。
      しかし、移住者の多くは、ならず者が多く、暴力的でした。その中の一人、
      スウェーデン人チャーリー・サベージは、バウ島の酋長のもとで銃で武装
      した外人部隊を組織して、敵の部族と戦いました。
      それまで刃物さえもろくに無かったフィジーでは、銃は当然大きな力を
      発揮しました。しかし、彼はあまりにも野蛮でフィジー人から恐れられ
      て疎まれる存在となり、1813年、サベージは殺され、食べられてた
      そうです。


フィジーの昔の武器の実物です。これで殴り合いの戦です。


フィジーの昔の武器。木製の武器と、西洋の銃器じゃ戦いにならないでしょうね。


1830年、ロンドン伝道教会のタヒチ人宣教師により布教が、ラウ諸島オネアタ島で
      始まりました。


1835年、ウェスレイ派(メソディスト)のイギリス人宣教師が、ラウ諸島で布教
      開始。
      この一行は、トンガからの派遣と思われます。           


1844年、イギリスの宣教師が、ビチレブ島に到着しました。
      イギリスは、フィジー人の食人習俗などの野蛮性を払拭する目的で宣教師を
      派遣したそうです。
      宣教師のフィジーから本国の教会へ、フィジー人たちが「白人の肉は、
      美味しくない。」と言ってますので今後は食べられないのではと、
      報告がなされたそうです。


1853年、トンガのトゥポウ1世、自らフィジーを訪問し、キリスト教化を進める。
      フィジー全土をキリスト教を利用して征服するための布石だったと現代
      の研究家たちは解説しています。


1854年、フィジー王ザコンバウが、キリスト教へ改宗しました。
      この後、急速にキリスト教が浸透し、食人などの西洋人が言う
      ”野蛮な風習”は徐々に消えていきました。



こうして白人たちの入植による天然資源(白檀、ナマコなど)の略奪に近い乱獲、
疫病の持ち込み、急速に進んだキリスト教の布教で、廃れていった土着の信仰と
伝統的な生活習慣・・・


世界中の発展途上国で発生した近代化による弊害が、ここ南太平洋でも繰り返され
ていく事となりました。



私がフィジーに来た頃、友人に聞いた話で、最初フィジーに来た白人の宣教師たちは、南の島の人々が「ごろごろとヤシの木陰で昼寝して」潮が引けば海岸で小魚を取り、夕方、ヤシの実から絞ったココナツ・ミルクで木の葉と一緒に炊いて、パンの木のフルーツとともに食べる自給自足の生活を、「これは人間の生活ではない。」と決めつけ、パンの木を切り倒して、白人が建設した魚の缶詰工場に従業員として働かせ、僅かな賃金を払い、これまた白人の経営する商店で食料を買わせて食べることが「人間の正しい生き方だ」と教え込んだそうです。








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フィジーの歴史 「トンガ王国」(Kingdom of Tonga)

トンガは、フィジーの南東、およそ1000km離れ、日付変更線のすぐ西に位置する4諸島大小170余りの島々からなり、人口は約10万5千人の国です。


トンガは、13世紀頃から14世紀にかけて、南太平洋で最も隆盛を誇っていました。
しかし、文字での記録を持たず、今では伝説としてのみ伝えられています。


そして、現在に至るまで、南太平洋で唯一、一度も欧米の植民地にならず、独立を果たし、王国を維持している国でもあります。


南太平洋の地図を開いて頂ければ理解出来ると思いますが、島々が数10キロあるいは数100キロ離れて散らばる広大な海洋大国だったと推測されます。


当時の技術で造られた、木造の双胴カヌーでこの海原を行き来して支配していたとは、今考えても想像を絶するような冒険だったのではと思います。


そして、19世紀にはフィジー征服の野望を持って、1千キロ以上を航海して戦いを挑み続けるとは・・・


私は、以前北ラウ諸島の小さな島のリゾートのGMとして滞在し、他に3島を管理していました。


その頃から、昔トンガの戦闘カヌーがしばしばラウ諸島に出没し、各島が襲われていたと聞かされていましたが、今回自分のブログでフィジーの歴史を書き始めた時、あまり知られていないフィジーとトンガの関係が分かって来ました。


私のフィジー人の嫁の故郷のタベウニ島も、当時ラウ諸島を征服し支配していた、トンガのプリンスで将軍だった「マアフ」(Ma'afu) の軍団にたびたび攻められていたと聞いていました。


トンガの深謀な戦略は、フィジーのラウ諸島に少しずつトンガから移民を送り込み、ある程度の勢力になった頃、1830年代、トンガ人宣教師を送り込み、キリスト教をも政治的に利用して占領政策を強化し、最後に1840年代、トンガ入植者の統率者として、マアフが乗り込み、軍団を組織し征服を完了させ、さらに他の島々を攻略して行きました。


これは、フィジー人の義理の兄弟が送ってくれた、マアフについて書かれた本の写真です。
この本は、手に入れてませんが、ネットで彼の事を検索して、彼はトンガでの王位継承の争いを避けるために、フィジーに送り込まれた事が分かりました。
そして自分の力で、フィジーのラウ諸島を征服し、初めてのラウ王(Tui Lau)になったと記されていました。
最終的には、フィジーの主権を脅かし、ビチレブ島で力をつけてきた後の、フィジー王ザコンバウの最大の敵になっていたそうです。


ちなみに、義理の兄弟は、トンガ軍侵攻を逃れて、北ラウの小島から部落ごと、タベウニ島に避難してきた人々の子孫です。


このトンガのフィジー征服の深謀な戦略を知るほどに、どこかの国の南の諸島で、今起きている現象が重なり、少し不安な気持ちにさせられました。




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フィジーの歴史 「トンガ王・トゥポウ1世の野望」

フィジーの隣国、トンガでは19世紀に入ると、タウファア・トゥポウが統一王となり、1826年にトンガに派遣された、メソジストの宣教師の影響で、王は1831年に洗礼を受け、ジョージ・トゥポウと改名しました。そして1845年に、ジョージ・トゥポウ1世となりました。
トゥポウ1世はキリスト教(メソジスト)を広げる聖戦という形でトンガ全体を、1852年までに武力で平定しました。


当時、ポリネシア地域で活躍していた、双胴カヌーの復元図。


ヨーロッパ諸国から植民地化の手法を学んだ、トゥポウ1世はトンガによる植民地帝国の建設を開始しました。
目標は、隣国フィジーで、まず東部フィジーに進攻し、トンガの領地とし、さらにトンガの将軍エネレ・マアフは、フィジーのラウ諸島を征服し支配下に置きました。


まず、トンガは武力進攻に先立ち、1830年代にフィジーのラウ諸島にトンガ人キリスト教宣教師を宣教活動のため上陸させ、マアフはそれを政治的に利用し、宣教師保護の口実でラウ諸島を征服して行ったそうです。


この間、1844年には、イギリスのキリスト教宣教師がビチレブ島へ来島しました。


この時期のフィジーは、6つの王国が入り乱れての凄まじい抗争が、バウ族のザコンバウ王による武力制圧という形で終焉を迎えたところでした。



当時、フィジーで実際に使用されていた、双胴カヌー(上)とアウトリガーのカヌー。


1853年、トゥポウ1世が自らフィジーを訪問し、キリスト教化を進めました。これはフィジーの白人入植者と手を結び、フィジー全体をトンガが併合するためでした。
1854年、フィジー王ザコンバウが、キリスト教へ改宗しました。


その後、トゥポウ1世は、キリスト教徒保護の名目で数次にわたるフィジー介入を続けました。
しかし、フィジーに権益を持つアメリカが難色を示し、1858年には最新鋭の蒸気船の軍艦を派遣したため、一旦併合の動きを停止しました。


この時点で、フィジーにはイギリス領事が置かれており、イギリスの権益も及んでいました。
ところが、トゥポウ1世は、フィジーをあきらめておらず、1860年にイギリスがニュージランドで「マオリ戦争」を始め、1861年にアメリカが南北戦争で弱体化した機に乗じて、再びフィジーに圧力をかけ始めました。
しかし、結局はフィジー側の抵抗が強く、1867年には、フィジーに立憲王国が成立し、アメリカ、イギリス以外にもニュージランド、ドイツの干渉を受け、フィジーから完全に手を引くことになりました。

観光用に復元された、ポリネシアン双胴カヌー。


南太平洋地域に広まって来た、キリスト教の影響で、食人や一夫多妻などの習慣が無くなって来た事は良い面ですが、キリスト教の宣教師と共にやってきた当時の白人の商人たちの振る舞いや、新たな疫病、それに部族同士の戦いを根本的に変えた、銃砲類の近代兵器が及ぼした影響の方が重大な局面を南太平洋地域に与えた事は確実です。


ともあれ、トンガ王トゥポウ1世の野望は、やっと統一されたフィジーの民族の抵抗と、諸外国の干渉で潰えました。
しかし、当時トンガに占領されていた、フィジーのラウ諸島にはトンガ人(ポリネシア人)との混血の子孫が多数存在しているのも現実です。























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