南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「英国のフィジー植民地支配」

1874年にフィジーの割譲を受けた英国政府は、「間接統治」と呼ばれるルールを適用し、フィジー人の伝統的社会組織と権力構造とを基盤にして自治組織を作り上げ「フィジー人によって、フィジー人を統治する」という方針で植民地経営を行いました。


1875年
植民地化一年後、英国王室の名代として、サー・アーサー・チャールス・ハミルトン・ゴードン初代総督が、フィジーに派遣されました。
彼を正式に受け入れるために各地の高位のチーフたちが集まったが、これは同総督にとってフィジー行政に関して諮問する良い機会となったことから、その後も同総督は、この集会を「Native Council of Chiefs」と名付けて定期的に開催させました。
これが代々の総督に受け継がれて「Great Council of Chiefs」(GCC)と名前を変えて現代まで続きました。


フィジー植民地の初代総督「Sir Arthur Charles Hamilton Gordon」(1829~1912)
任期1875年~1880年


当時のフィジーでは欧州系入植者たちの手により、殆ど略奪的に土地が買い取られていました。
さらに欧米人との接触で島になかった性悪の疫病が蔓延し、先住民の人口の減少も深刻で、ゴードン総督は、早急な土地対策や先住民の保護を痛感しました。


1880年、植民地政府は、フィジー人の土地に対する権利を確立させるための条例「National Land Ordinance」を制定し、欧州人が適正に購入し、既に彼らに正当な所有権が認められている土地を除いては、フィジー人以外の所有を認めないという条例です。


これにより先住民としての土地の権利が確定し、現在までフィジー人の土地は守られています。


これから除外された土地は、現在でも「フリーホールド」として自由な売買が行えますが、それに該当する島などが、時々世界の有名人たちに買われた場合、「この島の本当の所有者は古代に不法に島を追い出された、俺たちの祖先だから、俺たちに代金を払え」といった訴訟が起こされてきましたが、独立国となった後の裁判所は、1880年の判断を適用し訴訟を却下しています。


今年に入り、中国から来た観光客が札びらを切って、このフリーホールドの土地を買い占め始め、あるお金持ちが、小さな島を買い取り、娘さんの誕生日の贈り物として贈呈したというニュースも目にしていました。


フィジー政府は危機感を感じて、今現在、滞在許可者以外の外国人の「フリーホールド」の土地売買が禁止されたそうです










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フィジーの歴史 「フィジー王国から、英国植民地へ」

1865年
フィジーの歴史上初めて、統一同盟政府を作る提案がなされ、7人の大首長が署名し、最初の盟主には、ザコンバウ(Ratu Cakobau) が選ばれました。
ザコンバウは、二年二期の間盟主を務めた。しかし、その後マアフ(Ma'af) が次の盟主の座に就こうとした時に、他の首長が反対して、第一次同盟政府は崩壊しました。


もしこの時に、トンガ王国から派遣されラウ諸島を征服し、ラウ王を自称していた、マアフが盟主に就いていたとしたら、その後の「フィジー」は存在しなかったもしれません。


その後、数度の試行錯誤が繰り返されました。


1871年
オバラウ島(Ovalau) のレブカ(Levuka) で、ザコンバウは、戴冠式を催し、フィジー王
となりました。この時、イギリスは、ザコンバウをフィジー王として承認しました。
その後、ザコンバウ王は西洋式の政府を設立しようと試みましたが、この時既に政治の実権は、数人のイギリス人に握られており、ザコンバウが、統一国家としてフィジーを運営する事は事実上不可能でした。
それに、1848年に、アメリカの海軍演習による流れ弾が被弾したアメリカ領事ジョン・ブラウン・ウィリアムが所有する商店に対する地元民の略奪、続いて1855年に発生した、ザコンバウの部下によるウィリアム邸襲撃、放火被害に対し、アメリカ政府は、両方の事件について合計損害賠償金、4万5千ドル(現在価値1億2千万ドル)の支払いと幾つかの島の担保を要求し、どちらの時も軍艦を島に派遣して威嚇し執拗に迫っていました。


相変わらず続く、トンガ王国のラウ王マアフを使っての圧力。


これら多くの問題解決に窮したザコンバウは、ドイツに保護を申し出るも拒否され、首長会議の結果、イギリスに無償割譲の申し入れをしました。
最初はイギリスは、この申し入れに難色を示していたそうです。


1874年10月10日
イギリスが、割譲を承認して、フィジーは正式に、イギリス植民地となりました。


1820年頃から、欧州商人たちの居留地と交易の港町としてして発展していた、オバラウ島のレブカが、そのままイギリスのフィジー植民地の首都と定められました。



レブカは、1882年に、スバに遷都されるまで繁栄しましたが、その後ゆっくりと衰退して、当時のままに残された植民地時代のビーチ・ストリートとその周辺が、2013年「レブカの歴史的港町」としてユネスコの世界遺産に登録されました。



ビーチ・ストリート。


ビーチ・ストリートから見えるセイクリッド教会の時計台。




セイクリッド・ハート教会(Sacred heart Church) と石造りの時計台(1866年建造)


1874年、フィジーが英国植民地となった条約が結ばれた場所、領土割譲の跡(Cession Site) 。
3つの台座にそれぞれ石が載せられており、これが領土割譲の石(Cession Stones)として知られています。奥の建物は、ブレ・スタイルの地方議会場(Provincial Bure) です。






私としては、トンガ王国に征服されずに良かったと思いますが、その後に辿る、フィジーの歴史の困難な道程の出発点とも考えられます。












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フィジーの生活 「ホームメイド・パパイア・ジャム」

「フィジーの歴史」を一休み・・・


今、フィジー産の完熟パパイア(Papaya) が大変安くなっていたので、早速ホームメイドのパパイア・ジャムを作りました。

完熟パパイア 6個で2F$、(約130円)全部で重量が、約2.5kgありました。
写真は、すでに大きめの2個を処理したあとです。


このスライサーで果肉を取ります。


最初の2個分の果肉、完熟なのでジューシーです。


6個全部の果肉です、重量、1.550kg(容器、124g)になりました。


皮と種は、野鳥さんへ・・・


フィジー産の粗糖(ブラウン・シュガー)を、果肉重量の、今回は60%で、930g使用。
2kgが、3.38F$なので、約1.57F$(約100円)です。


すでに全量の粗糖と野生のレモン果汁を加えて、煮詰めているところです。


これが出来上がりの、「フィジー完熟パパイア・ジャム」です。


出来上がり重量で、約1.8kgになりました。瓶で、5本分。
ジャムを詰めた後、煮沸して密封済みで、すでに冷ましてます。
左から二本目の瓶で、内容量350gです。5本目は、内容量は約80%です。


使用材料は、フィジー産完熟パパイヤ 6個と、野生のレモン果汁少々と、フィジー産粗糖です。
材料費で、約240円くらいです。
他の物は一切入ってません。


普通は、粗糖50%で作りますが、完熟でジュース分が多いので、粗糖を60%に増やしてます。



このレシピは、私のアレンジで、フルーツ本来の味を楽しめます。


ただし、フィジーでは、新品のジャム用瓶が手に入らず、中古のガラス瓶を使用しています。











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