南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史「2000年5月の文民クーデター」(2)

国会議事堂に人質と共に立て籠もったスぺイド率いる武装団は、政権の奪取を宣言し、自らフィジアンの利益を代表としていると主張して、「インド系首相チョードリーの解任」「マラ大統領への辞任要求」「現行憲法を廃止してフィジー系住民の利益の至上性を保証した新たな憲法の制定」といった要求を掲げました。


スぺイドと武装団が占拠していた、フィジーの国会議事堂、2000年の文民クーデター直後の写真。



マラ大統領は、翌日「非常事態宣言」を発令し、大酋長会議(GCC)と協力し事態収拾のため武装団と交渉にあたりましたが、武器を渡されたクーデターに協力するフィジー人の暴徒たちの各所での発砲事件が相次いで、負傷者もでていました。


武装して、スバ市内を行進する、武装団を支持する若いフィジー系住民たち。



さらに、スバの街での商店の襲撃、略奪、放火の様子が、世界に配信されたことで、怒った武装団と暴徒の集団が、当時唯一のTV局を襲撃し、警備の警察官を射殺し、機材、機器などを破壊するなど悪化の一途をたどりました。
その後、これまたフィジー唯一の、水力発電所を襲撃したので、フィジー全域で停電となりました。



この状況下、事態を重く見たフィジー軍最高司令官は、29日午後、フィジー国軍が市内に展開させてスバ地域に「戒厳令」を宣言しました。そしてフィジーは軍政下におかれました。


警備の兵士と、小競り合いのフィジー系住民たち。


その後、島の電話回線は、戒厳令が宣言され、市内に一応平穏が戻った頃、復活しました。
これも後から聞いた話によると、電話局のインド系の技術者が、武装団が電話で各地に指示を出せないように機械を止めていたそうです。



電話が復活しても、スバの取引先ほとんどが営業を停止か破壊されて連絡が付かず、会計事務所はビル全体(ANZ銀行ビル)を軍に警備されて営業を再開していましたが、インド系の職員ばかりで外に出るのは禁止されていたそうです。


スバ市の戒厳令下、守備に付く警戒中の兵士。


スバ市内を警備中のフィジー国軍兵士。


そんな中、私の島の管理運営にも困難が生じてきました、備蓄食料や燃料が尽きる前に根本的な対策の必要性から、スバへ行く決意をし、6月中旬ごろ、スバの日本大使館にスバに行く事を連絡しました。
日本大使館の通常業務部門は、ナンディのホテルに移っていましたが、武官と数名の留守職員がいて「スバ市内は、戒厳令で一応平穏ですが、国会議事堂の占拠は継続中で予断をゆるさないのでスバの訪問は差し控えて下さい。」との返答でしたが、私も「今後の対策と、島のスタッフに払う賃金のための現金が必要のため、スバへの出張は不可欠です。それに自分の身は自分で守りますので、大使館の一切の助けは要りません。」と答えて出発の準備にかかりました。


その頃、各地でフィジー政府の土地の賃貸料未納を理由に、フィジー系地元民の地方空港占拠、道路閉鎖などが相次いで国内線の飛行機も操縦士ごと押さえられている空港もありました。
国内線もほとんど欠航状態との情報を得ましたが、航空会社にチャーター機を要請しました。
ところが、今はチャーター機も飛ばせないとの返事です。


仕方なく、多めの燃料を積んで、島のボートで信頼のおけるフィジー人のスタッフを連れて、タベウニ島のマテイ空港目指して出発しました。島から、40マイルの距離で、海上が穏やかであれば、約2時間の航海です。


マテイ空港では、もう一週間以上飛行機が来てないとの返事で、サブサブ空港ならと言われ、ボートで最短距離のバヌアレブ島のローカルの港に上陸し、ボートは島に戻しました。


港近くのフィジアンの村で、車を借り出してサブサブ空港に向かいましたが、ここでも何時飛行機が来るか分からないと言います、そこからスバ空港の事務所に問い合わせると、数日後にランバサ空港に特別機が飛ぶのでランバサに来いとの話で、サブサブに一泊後、タクシーでランバサに向かいました。


ランバサ空港で、1泊して飛んできた飛行機にフィジアンのスタッフと乗り込み、やっとスバのナウソリ空港へ、3日がかりで到着しました。


ナウソリ空港から、タクシーでスバ市を目指しましたが途中地元民の道路封鎖のためストップしましたがフィジアンのスタッフの説得で無事通過し、今度はスバ市の入り口で、装甲車を使った軍の検問所があってまたストップさせられ、今度は、私が検問所の兵士に自分の立場を説明し、スバ訪問の目的を告げて許可を得ました。


最後は、ランバサから予約を入れていたスバのホテルの前で憲兵の腕章を付けた下士官らしい兵士に止められましたが、同じく説明し、予約の件を告げると書類を確認し、敬礼されて中に案内されました。


ホテルは、オーストラリア軍、ニュージランド軍の高級将校たちで賑わい、海上にはニュージランド海軍の軍艦が数隻停泊し、機銃を備えた小型のアルミボートでパトロールが行われていました。


チェックインする時、顔見知りのホテルのスタッフからビックリされ、どうやって島からスバまで来たのかを訪ねられましたが、笑って「シークレット」と告げました。



次に続く・・・












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フィジーの歴史「2000年5月の文民クーデター」(1)

2000年5月19日、スバで、フィジーにとっては3度目となる、いわゆる「文民クーデター」が、勃発しました。


その朝、小さな異変は、島の事務所でも起きていました。
さっきまで通じていた「電話」がいきなり沈黙しましたが、よくある事なので気にせず回復を待っていました。


お昼すぎに隣の島から、1隻の小型ボートがやって来ました。


来訪者は、挨拶もほどほどに、村の自宅でFMラジオ(この辺はTVの電波は届きませんし、隣の島には電気もありません)を聴いていたら、今朝スバで、クーデターが勃発し、クーデターの武装団がラジオ局を占拠して、全フィジーのフィジー人に向けて蜂起を呼び掛けているとの事でした。


すぐに、全スタッフを呼んで、臨時休業とし全員、隣の島の村に戻しました。
島に滞在するスタッフに各施設、客室などの点検を指示して、今後の対策を考えました。


翌日、隣の島の酋長とスタッフのリーダーが来訪してきました。


昨日、村の酋長たちと長老で長時間会議して、結論は、私の島の事業は通常通り続けて欲しいとの事でした。
昨日のクーデターについては自分たちは何も聞かされていないとも言います。


それで、私は快諾しましたが、スバの騒動の成り行きは見守りたいとも告げました。


私は、約2週間休暇で日本に帰国していて、3日前にスバから島に戻ったばかりの時でした。


スバの会計事務所で書類関係の仕事を終えて、チャーター機で島に戻り、留守番のLA本社から来ていたアメリカ人の方を、私が乗ってきたチャーター機でスバに送り、彼はクーデターの1日前にナンディからLAに戻った事を後から知りましたが・・・


やっと2週間が過ぎる頃、電話が復活し、スバの日本大使館を通じて「文民クーデター」の様子が伝わって来ました。
その情報によると、スバでクーデターが勃発すると、ほぼ同時にフィジー系住民による、スバの街全域で主にインド系の商店の打ち壊しての略奪や放火が始まって戦場のようになったとの事でした。
それに同日付けで日本の外務省から、フィジー全土に「危険度2」スバ地域に「危険度3」が発令されて、スバ地域の日本人は大使館の一部職員を残して、ナンディに撤退するか、日本に帰国したとの事でした。
私も撤退を促されましたが、島を維持する必要から取りあえず様子を見る事を告げました。
このころ、フィジー国軍により、スバ地区(スバ市、ナウソリ町、ラミ町)に「戒厳令」が宣告され、夜間外出禁止令も発令されていました。


電話が復活してすぐに、LA本社と連絡し今後の対策を協議していました。
本社の意見も様子を見ながら、最終判断は私に任せるとの事でした。


ちょうどリゾートは改築工事のため、お客さんを入れてない状況でしたのでラッキーでしたが・・・



私は、1999年3月初旬頃、初めてフィジーに来て島にも2週間ほど下見に滞在し、一度日本に戻り、同年5月に正式にフィジーの総支配人として赴任しました。
私が滞在したリゾートの島と周辺の3島と合わせて、4島の管理運営を任されました。


この「文民クーデーター」は、仕事もやっと慣れてきた、丁度1年後に発生しました。



フィジーでは、1998年7月発効の修正憲法に基づいて、1999年5月に、総選挙が実施されインド系のチョードリー(Mahendra Chaudhry) が党首を務めるフィジー労働党が勝利しました。
フィジー労働党は、それぞれフィジー系が党首のフィジー系協会党、国民統一党と連立政権を組み、首相には独立以来、初のインド系となるチョードリーが就任し、閣僚の3分の2のポストにはフィジ系がつきました。
しかし、程なくして、新政権はインド系よりの政策との批判から、反政府運動が各地で始まりだしました。
そうした中、政権発足後1周年を記念した国会開催中の、5月19日、フィジー系民間人スぺイト(George Speight) が武装団を率いて国会に侵入し、チョードリー首相はじめ閣僚たちを拘束しました。


後から聞いた話によると、このクーデター勃発は、フィジー系住民は事前に知っており、朝早くから村を出て、スバの街近くに待機し、反政府運動のデモ隊と呼応して街に乱入したそうです・・・



次に続く・・・

































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フィジーの歴史「独立後の苦悩」

1970年に、英国植民地から、フィジーは悲願の独立を果たしますが、これには砂糖キビプランテーションを基幹産業として確立させた、インド人たちの経済活動が大きな原動力となった事は事実です。
さらに20世紀初め頃より、自由移民として富裕なインド人たちが、投資家して各種の分野で産業を育ててきました。


すでに独立前には、フィジーのインド人は総人口の半数近くに達していました。
これが現在の人種対立につながろうとは、のんびり暮らしていたフィジー人たちには想像もつかない事でした・・・


独立後、インド人たちは、インド系フィジー人と呼ばれる事となりました。


1987年4月:総選挙の結果、連立政権のバヴァドラ内閣(バヴァドラ首相は
      フィジー系でしたが、閣僚の約半数がインド系の内閣。)が誕生。


同   年5月、9月:シティベニ・ランブカ陸軍中佐を中心とした軍部によるクー
      デターにより、フィジー共和国を宣言。


同   年10月:英国がフィジー共和国を英連邦より除名。
    
     同 月:ロツマ島出身の空手家で、王位を自称していたヘンリー・
      ギブソンが、移住先のニュージランドで、ロツマ島の独立を宣言。


同   年12月:フィジー国軍の、ロツマ島上陸で鎮圧される。


同   年12月:カミセセ・マラ首相のもと軍政より民政に移行。


1990年7月:フィジー系の憲法公布。


1997年9月:改正憲法公布、英連邦に再び加盟。


1998年7月:修正憲法発効。国名を、フィジー諸島共和国に変更。


1999年5月:総選挙により、初のインド系マヘンドラ・チョードリー首相就任。
      労働党を中心とする政権誕生。


2000年5月:フィジー人の実業家、ジョージ・スぺイト率いる武装集団が、
      チョードリー首相及び国会議員を多数を人質に国会議事堂を、
      約2カ月占拠(国会占領事件)。
      2週間後、フィジー国軍が、スバ市、ラミ町、ナウソリ町に戒厳令を
      宣告し、午後8時以降の夜間外出禁止令を同時に発令。



このように、フィジーでは近代になるとともにフィジー人とインド系の人種間の確執が表面化し、インド系の政治的な力が増すと、クーデターで潰されると言う繰り返しを行ってきました。
フィジーの経済はほぼインド系に牛耳られているのに、政治にまでインド系の影響が及んでくると、フィジー人の危機感が増してくるのでしょうね。


さすが、2000年5月のスぺイドが率いた武装集団の国会占拠事件の後、インド系の人々のフィジー脱出が相次ぎ、当時均衡していた人口比が、現在インド系が、37%に落ち込んだそうです。





    


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