南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの北部ラウ諸島

クーデターの暗い話が続いたので、ここでフィジーの北部ラウ諸島の、”癒し系”の写真を紹介します。


以前、西部地区のヤサワ諸島の島々を紹介しましたが、東部のラウ諸島は、フィジーのナンディから東に、約350km、本来の日付け変更線(The International Date Line) を越えたところに位置する、緑のジャングルに覆われた島が多いところです。


この辺は、観光開発のまだ少ない地域で自然のままの島々が残されています。


「フィジーの歴史」でも触れましたが、隣国トンガ王国の支配が長く続いていたところでもあります。



この写真は、私のブログの背景写真です。









このあたりをボートで、のんびり航海していた時は、フィジーの複雑な政治背景を忘れさせてくれました。






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フィジーの歴史「2000年5月の文民クーデター」(4)

7月13日の、人質解放と武装団の武器の放棄が、クーデター参加者放免の交換条件でした。


放棄した武器を説明する、クーデターの首謀者スぺイド、彼はこの後の裁判で死刑判決を言い渡されましたが、後日減刑で、終身刑となりました。



しかし、この協定に不満なグループ(噂ではクーデター参加者の約半数と聞いていました。)たちが、武器を持ったまま逃走し、スバ郊外の学校を占拠して立て籠もりました。
さらに、一部のグループは、本島から他の島々へ逃走したと情報が入りました。


国会議事堂だけが騒動の現場だったのが、いわゆる「手打ち」の後から、騒動が全国的に広がり始めました。


対外的には、クーデターは失敗して「スぺイド以下の武装団」は、武装解除したことになっていて、暫定政府は事件処理の作業を急いでいました。


まず、フィジーの全公務員の給料が、一律20%カットとなりました。


結果的に、武装団はリーダーを失った、ただの暴力集団となり他の島での暴力行為が伝えられてきました。
高級リゾートの占拠、地方の軍の武器庫の襲撃など・・・


8月下旬頃になると、スバのアメリカ大使館より頻繁に安否の確認の電話が入るようになりました。
それに、各島々を廻る貨物船から下船する人々が武器を携えてくるかもしれないので注意をとか・・・


島近くにスバからの貨物船が来た時は、私もボートに乗って監視に行くようにしました。


8月下旬頃、タベウニ島近くのリゾートが武装したグループに占拠されたとの情報が、アメリカ大使館からもたらされ、もし私が島を脱出したいなら海兵隊のヘリを送りますがと打診がありました。
東部地区の島々に滞在していたアメリカ国籍の人たちは、すでにナンディに退避したとの事です。


南の離島は、平時の時は理想的な「南国の楽園」を演出できますが、このような状態に置かれると、何とも不用心な立場となります、ボートで夜間に島の裏の海岸に漕ぎつけられたら簡単に上陸できますので・・・


LAの本社には、全ての状況を報告していましたが、本社より、ついにリゾートの閉鎖を指示されました。


私はその後、密かに撤退の準備をして、リゾートの状態を写真で記録を残したり、備品のリストを作成したりして、島に滞在しているフィジー人スタッフに留守の間の仕事を指示したりして・・・


9月中旬に、本島に出張と言う口実で、ボートでタベウニ島に渡り、タベウニの空港から国内線で前回のスタッフと共にスバに行きました。


スタッフを島に戻すため貨物船に乗せてから、会計事務所で書類整理と会計報告を済ませて、大使館に挨拶をして、ナンディに撤退しました。


ナンディで、約2週間ほど様子を見ましたが、状況が好転する見通しが立たず、本社の了解で日本に戻りました。


その後の情報で、11月頃、武装団の残党が立て籠もっていた学校に、フィジー国軍が強行突入して解放した後、地方の残党狩りを行い、何とか終息したのが、年末だったそうです。


次に私が、フィジーに戻ったのは、翌年の3月でした。


フィジーの観光産業には大打撃で、前年比90%減の観光客数に落ち込み、残りの10%は、バックパッカーと高級離島リゾートのお客さんだけだったそうです。


日本からは、前年は、4万人を超えて最高の観光客を記録していましたが、クーデター発生直後に、フィジー全域に危険度2、スバ地域に、危険度3が、発令されたためツアーが全部キャンセルとなり、その後、日本人観光客0が続きました。


デナラウのホテルなども閉鎖したり、営業する客室を半分に抑えたりと苦労している様子でした。


シェラトンが、当時の、1泊、650F$の部屋を、160F$に値下げして販売していました。


ナンディは直接の被害や住民の暴動すら発生しませんでしたが、観光客減のため普段より、ひっそりとした印象でした。


今回のクーデターの解決が長引いたので、ナンディ側、西部地区だけで独立したいと地元有志が、アメリカ政府に協力を申し入れていたそうです。


その後、欧米の観光客数は徐々に復活して、年間観光客数も当時の2倍近くまで成長して来ましたが、日本人観光客のフィジー離れが続き、直行便が廃止され、現在は年間7千人以下(留学生を含めて)になっています・・・



















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フィジーの歴史「2000年5月の文民クーデター」(3)

今回は、「文民クーデター」と呼ばれてますが、実はフィジー国軍の一部兵士たち(噂では、英国軍のSAS出身者たちと言われてました)が協力し、武器庫を開けてスぺイド一味に大量の武器を渡したとの事。
さらに、集結してきたフィジー系住民の賛同者たちにも武器を配ったそうです。


さて、フィジー人のスタッフに当面の経費を渡し、彼の親戚の家に送りだし、ホテルで一晩ゆっくり休憩して、次の日の午前中に、現地法人を置いてる会計事務所を訪ねました。


まず、街に出て驚いたのは、フィジー人だらけで、白人、東洋人、ましてやインド系の人たちは、誰も居ません。


ウロウロしているのは、フィジー人たちと警備中の武装したフィジー国軍の兵士たちだけです。
ちなみに、フィジー国軍には、インド系の兵士は皆無と聞いています。


この頃は、スぺイドの武装団とフィジー国軍との間で交渉が続いていたので、スバの街は小康状態でしたが・・・


私が唯一の外国人で、しかも背の低い東洋系・・・


目立つ事限りなく、全員の目が、私に向けられていました。


会計事務者は、ANZビル(オーストラリア・ニュージランド・バンク)の上階にありますが、このビルは、重要拠点と言う事で軍の兵士で厳重に警備されていました。


事務所で、今後の打ち合わせと、LAの本社との電話協議を済ませて、島の運営用の経費を何時もより多めに要求して、チェックを貰いました。(当時はフィジーは個人でもチェック口座が普通で、現金が必要な場合は、自分でキャッシュ・チェックを書いて、銀行の窓口で現金化してもらいますが、ほとんどの支払いはチェックで支払いが出来ます。ただし、普通の人は、まず銀行に口座を開くことも出来ませんでしたが・・・今でも簡単には口座は開けません。)


チェックを持って、1階のANZ銀行の中に入ると、窓口は、10ドル~50ドルなどの少額のチェックを現金化する人々で長蛇の列です、しかもそれ以外にも銀行の外や中に多くのフィジー人が屯していました。


そんな中で、会社の現金を、数万ドル、しかも賃金支払い用に小額紙幣で・・・さすがの私もこれには参りまして、会計事務所に引き返し、ANZ銀行の職員を呼んでもらい、現金を事務所内で受け取れるように頼みこみました。


一応、なるべく古いTシャツに古い短パンを着用して、金のないバックパッカーの格好をしていましたが、とにかく街中に外国人が一人も歩いていません・・・


受け取った現金を、リュックの底に押し込んで、何気を装って外に出ました、急いでタクシーを探しホテルに戻り現金を部屋のセイフティに入れて一安心です。


ホテルのレストランで制服の将校さんたちの中で昼食を取り、タクシーを呼んで街の見学に出かけました。


フィジー系の暴徒に商品をすべて略奪された、スバの商店街。


略奪の後、放火され焼け焦げたインド系の経営する商店。


私もカメラは持っていましたが、とてもそんな状況でなくリュックにしまったままでした。


街は、警備中の兵士が展開し、所々に装甲車の検問所が設けられ車は一台一台止められチェックを受けていました。


略奪を受けた商店などは、まだそのままの状態で放置されていて、さながら戦場の跡と言った雰囲気でした。


ホテルに戻る途中、驚いたことに日本料理店の「大黒」が営業していました。


その日の夕食は、久しぶりに「大黒」で日本料理を食べましたが、「外出禁止時間が来ますのでお急ぎ下さい。」と急かされて食事がすむと急いでホテルに戻りました。


次の日から、スバの街で、色々と調査しましたが、取引先だったお店などがほとんど閉鎖されたままで開店したお店でも、クーデター発生後にオーストラリアとニュージランドがフィジーとの輸出入を禁止していましたので乳製品を始め輸入製品がほとんど底をついていました。


とにかく、買える物だけ買って箱詰めにしてホテルの部屋に保管し、国内線の航空会社と交渉し、島までのチャーター便を予約しました。


数日後、スタッフも呼び返し、チャーター機(アイランダーと呼ばれている、双発のプロペラ機で、8人乗り)に購入した商品の箱詰めを積み込んで、無事島に戻りました。


島に戻って、数日後、スバのインターネットの会社から連絡が入り、営業を再開したので接続出来ますとのこと。
実はクーデターの前にスバで接続申請を済ませていましたが、暴動の後、事務所を閉鎖していたそうです。


何とか手動でネットに接続し、大使館にメールのアドレスを連絡し、その後の情報は、メールで受け取れるようになりました。
島での生活は、なるべく現地で調達できる食材の料理に切り替え、なんとかやりくりしていました。


シーフード(ツナ系の魚、ロブスターなど)は元々自給していましたので問題はありませんでしたが・・・


燃料関係は、タベウニのボートをチャーターして、タベウニの燃料屋から直接調達しました。


スバでは、交渉がなかなか成立せず、軍が人質等の健康を考えて交渉最終日を決定し、強硬突入の準備で国会議事堂周辺の民間住宅の住民の立ち退きを始めていました。


しかし、7月9日に、やっとバイニマラマ国防軍司令官・ガラセ暫定政権首相とスぺイドらの武装団との間で「人質に関する協定」が調印され、7月13日にチョードリー前首相を含む人質全員が無事解放されて、5月19日以来の一連の事件に、一応の終止符が打たれました。


結局、国防軍が「戒厳令」を宣告し外出禁止令を発令し、全権を掌握した時点で、現政権は解散され暫定政権設立の準備と憲法廃止が行われたので、スぺイドたちが要求していた半分は、結果的に達成された事にはなりますが・・・


対外的には、この日で今回の「文民クーデター」は失敗に終わったことになりましたが・・・


しかし、私たちの悪夢は、この日が始まりでした。


次にまたまた、続く・・・
























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