南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの生活 10月3日(土曜日)


今朝、6時の我が家の前の青空です。今は季節の変わり目(乾季から雨季への)で先週より低気圧がフィジー全体を覆って、折角の満月を観賞できませんでした。
今日は晴れてますが、薄く雲も出てます。
今朝の気温は、21°c位で、日中は30°c前後、日差しは強くなりました。
フィジーの「紫外線」は、日本より数倍強いと言われてます。多分空気が澄んでるから・・・


こちらではニラが滅多に市場に出て来ないので、前回日本から内緒で持ち込んだ種をハチに植え、生えてきた茎を一度刈り取って、現在二番目のニラの茎です。
種を蒔いてから、約2ヵ月半でやっとここまで成長しました。


このパセリは、フリーマーケットで購入した苗を、鉢植えにしてすでに何度も収穫しています。


先日紹介した、マンゴーです。かなり大きくなってきました、もうすぐ収穫できそうです。



我が家の前の道から国道に出た、正面にあるフィジーのガソリンスタンド(こちらではガス・ステーションと呼んでます)です。
今日現在、ガソリンが、1L、F$2.20-(約135円)軽油が、1L,F$1.80-(約110円)です。
多分、賃金ベースで考えれば、かなり高い価格だと思います。



スタンドの中は、ミニ・マーケットになっていて、基本的な日常の食品は揃ってます。


奥にある、フライド・チキンのコーナーです。ここが本店で、市内に2店、支店があります。


ちなみに、ナンディ国際空港からナンディ・タウン、約10kmの区間にGSは、4箇所にあります。


この後、歩いて、土曜の朝の「フリーマーケット」へ・・・








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フィジーの歴史「民主化までの歩み」(2)

2009年9月:バイニマラマ首相は「変化のための戦略的枠組み」(A Strategic
       Framework for Change) と題された、民主化へのロードマップを発表。


2011年2月:国名を「フィジー共和国」(Republic of Fiji) と改称。
       通称 Fiji 、フィジー 


2012年  :7月頃より、各地で2014年の総選挙に向けての選挙人名簿
       作成のため、投票者用IDカードの作成作業がスタート。


2013年9月:新憲法が公布。


2014年1月:総選挙に向けた、選挙委員会委員を任命。


同   年2月16日:太平洋諸島フォーラム(PIF)を代表、オーストラリア、
       ニュージランド、パプア・ニューギニア、ツバル、バヌアツの
       外相などがフィジーを訪問、選挙準備の状況につき意見交換の
       会談が行われた。


同   年3月5日:バニイマラマ首相は、国軍司令官を辞任。(法により軍関係者
       は、政党活動を禁止されているため。)


       バイニマラマ首相は、文民として総選挙に臨むべく、新政党
       「フィジー・ファースト」(Fiji First) を結成、登録。


同   年3月31日:バイニマラマ軍司令官の辞任を受けて、オーストラリア
       とニュージランドが、フィジーへの渡航制限を解除。
       しかし、この頃には渡航制限に関係なく両国からフィジーへの
       観光客は大幅に増加していました。


同   年4月:総選挙の日取りが、9月17日(水)と発表。
       その後すぐ、投票日を、祝日とすることが決定。


2014年9月17日:フィジー総選挙が無事に実施される。
          日本やオーストラリアなど14カ国・地域が、国際選挙
          監視要員を派遣、当日の選挙を監視。


          バイニマラマ暫定首相率いる政党「フィジー・ファースト」
          が大勝。これにより民政復帰。
          投票率83.97%と発表。


当日、朝早くから我が地区の投票所になった「ナマカ・パブリック・スクール」に並ぶ、有権者の長い列。


名前の、アルファベット順に分けられた教室の投票所。


コバルト色の、ベストを着た投票所の係員。


これは、別の地区の投票所、全国どこの投票所もこんな感じだったそうです。
フィジー国民の総選挙に対する関心の高さの現れでしょうね。
フィジー人、インド系、ロツマ人、東洋系、大洋州系など複雑な人種の有権者たちが何の騒動もなく静かに列を作って待っていました。


投票中の、バニイマラマ暫定政権首相。


同   年9月26日:英連邦がフィジーの除名措置を解除、フィジーの英連邦
          復帰。



今回の選挙は、「バニイマラマ氏の改革路線に対する国民の信任投票」(南太平洋大学のサンドラ・タルト准教授。)の側面が強いと考えられます。
多民族主義を掲げる同氏は、先住民フィジー系住民の優越的な地位を見直し、能力主義の人材登用を推進した。義務教育の無料化や道路インフラ改善などに力を入れ、経済界で有力なインド系などの支持を得ての結果とも考えられます。
もともと2000年の文民クーデターの時も、フィジーから逃げ出せない多くの資産や事業を抱えた富裕のインド系は、陰ながらフィジーの政権をコントロールしていたとも言われています・・・


今回は堂々と「フィジー・ファースト」を支持し、援助し議員にも多くのインド系人材を送り込みました。


民主主義の先進国を標榜し、世界の発展途上国に、上から目線で「ODA」とやらで、お金を撒き散らしている東洋の島国の選挙の投票率から比べたら、フィジーの総選挙投票率、83.97%は、どう映っているのでしょうか?







       



       
 


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フィジーの歴史「民主化までの歩み」(1)

結局、2000年5月19日、勃発の「スぺイド率いる武装団のクーデター」は失敗し、5月29日にフィジー国軍が、スバ地域に「戒厳令」を宣告し、軍が全権を掌握し議会の解散、チョードリー首相の解任、憲法の廃止などを速やかに行ったため「軍事作戦(多分これは軍のクーデター)」は成功したとの判断です。
その後、暫定政権の成立まで試行錯誤がありましたが、一応ガラセ暫定政権首相で落ち着きました。


スぺイドは、協定違反(武装解除せずに各地で騒動を起こしたグループの凶悪犯罪などによる)により逮捕され、法廷で死刑判決を言い渡されました。その後、終身刑に減刑。


しかし、彼が掲げた要求のほとんどが実現し、これ以後フィジー人主体の国家運営が行われて行きました。
スぺイドが掲げた要求の中にフィジー人の権利を、200年前(英国植民地以前)に戻そうと言うのまであり、その頃は電気もなかったので、発電所はいらないとフィジー唯一の水力発電所を襲撃し設備を破壊しました。
その後、数か月これも唯一のディーゼルエンジンの発電所で発電し、地域ごとに一週間交代で供給していました。


でも、大型のホテルは、自家発電装置が設置されていますのでそれほどの混乱はありませんでした。


その頃フィジーは、普通でもよく停電してましたけど・・・


2001年9月: 総選挙で、ガラセ首相就任。
        ちなみに彼は、北部ラウ諸島(バヌアンバラブ島)の大酋長です。


2006年5月: 総選挙により、ガラセ首相再任。
        この後、2000年の文民クーデターの処理問題やガラセ政権の先住民
        政策および同政権の腐敗問題などで国防軍との関係が悪化
        先進諸国は、国防軍に対して暴発防止の軍事圧力をかけていました。
        米海軍は、第七艦隊の派遣も匂わせていましたが・・・
        11月には、フィジー近海でオーストラリア海軍の軍事演習が実施
        され、これに参加中の軍事ヘリが海中に墜落事故を起こしたことで、
        オーストラリアのフィジーに対する軍事介入の恐れが表面化し、
        ガラセ政権がフィジー国軍に内緒でオーストラリア軍に介入を要請
        したとの疑いが浮上しました。
              
    12月: バイニマラマ軍司令官による「軍事クーデター」発生。
        同司令官が全権を掌握し、翌日6日には、全土に非常事態宣言を布告
        しました。
        この政変により、ガラセ首相が追放(故郷の島に強制送還され軟禁
        状態に)、議会も解散されました。  



左が、前首相のガラセ氏、右が今回の「軍事クーデター」の首謀者バイニマラマ軍司令官。


スバの街中の、軍の検問所。


スバの街中で警戒中の兵士たちが、インド系のスナック売りからスナックを買っている様子。


今回の軍事クーデターは、政権奪取が目的のため、住民には暴動を禁止し厳しく取り締まったため、街中は、なんの混乱もなく住民生活は通常のままでした。


しかし、この以降、ニュージランド・オーストラリア・アメリカ・EUなどが、援助停止、文化スポーツ交流停止や入国禁止などの制裁を加えましたが、この間隙に中国からの援助が突出して来ました。


私は、島で軍事クーデターの発生以前から事態の成り行きを手に入る情報で見守っていました。
クーデター発生後、およそ2週間後、スバに出張して街の様子を観察しましたが、すべてが通常でしたが、国道の要所要所に軍の検問所が設けられて、一応車両の検査が実施されていました。
通行人には何の関心もないみたいでした、警備中の兵士に挨拶すると、向こうも笑顔で挨拶してくました。


2007年1月: バイニマラマ暫定内閣の首相に就任。
        インド系のチョードリー前首相が、閣内の最重要ポストである、
        財務・国家計画・公企業および砂糖改革大臣に就任。
        2000年のクーデターの後からフィジーでの将来に見切りをつけた、
        インド系人々の国外脱出が続き、この年のインド系の総人口比は、
        36%まで落ち込みました。


2009年4月9日:高裁が軍事政権を違法と判断しました。
    同月10日:イロイロ大統領が、憲法廃止し、バイニマラマ軍司令官を、暫定
         政権首相に任命。
         民政復帰の総選挙は、準備不足、選挙法の整備が先として、
         2014年まで延期と発表。



同   年5月2日:太平洋諸島フォーラムが、民主的選挙の未実施を理由にフィジーの
         メンバー資格停止を発表。
同   年9月1日:英連邦が、同じ理由で資格停止を発表。2006年当時、
         フィジーが英連邦に、2010年までに民主選挙を実施すると
         約束していたことによる。



日本も含めて対外的には、「2006年の軍事クーデター」が、過去3回のクーデターのフィジー民族系がインド系政権を追放するという従来の構図とは、正反対のクーデターであったということはほとんど理解されなかったと思います。



         





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