結局、2000年5月19日、勃発の「スぺイド率いる武装団のクーデター」は失敗し、5月29日にフィジー国軍が、スバ地域に「戒厳令」を宣告し、軍が全権を掌握し議会の解散、チョードリー首相の解任、憲法の廃止などを速やかに行ったため「軍事作戦(多分これは軍のクーデター)」は成功したとの判断です。
その後、暫定政権の成立まで試行錯誤がありましたが、一応ガラセ暫定政権首相で落ち着きました。
スぺイドは、協定違反(武装解除せずに各地で騒動を起こしたグループの凶悪犯罪などによる)により逮捕され、法廷で死刑判決を言い渡されました。その後、終身刑に減刑。
しかし、彼が掲げた要求のほとんどが実現し、これ以後フィジー人主体の国家運営が行われて行きました。
スぺイドが掲げた要求の中にフィジー人の権利を、200年前(英国植民地以前)に戻そうと言うのまであり、その頃は電気もなかったので、発電所はいらないとフィジー唯一の水力発電所を襲撃し設備を破壊しました。
その後、数か月これも唯一のディーゼルエンジンの発電所で発電し、地域ごとに一週間交代で供給していました。
でも、大型のホテルは、自家発電装置が設置されていますのでそれほどの混乱はありませんでした。
その頃フィジーは、普通でもよく停電してましたけど・・・
2001年9月: 総選挙で、ガラセ首相就任。
ちなみに彼は、北部ラウ諸島(バヌアンバラブ島)の大酋長です。
2006年5月: 総選挙により、ガラセ首相再任。
この後、2000年の文民クーデターの処理問題やガラセ政権の先住民
政策および同政権の腐敗問題などで国防軍との関係が悪化
先進諸国は、国防軍に対して暴発防止の軍事圧力をかけていました。
米海軍は、第七艦隊の派遣も匂わせていましたが・・・
11月には、フィジー近海でオーストラリア海軍の軍事演習が実施
され、これに参加中の軍事ヘリが海中に墜落事故を起こしたことで、
オーストラリアのフィジーに対する軍事介入の恐れが表面化し、
ガラセ政権がフィジー国軍に内緒でオーストラリア軍に介入を要請
したとの疑いが浮上しました。
12月: バイニマラマ軍司令官による「軍事クーデター」発生。
同司令官が全権を掌握し、翌日6日には、全土に非常事態宣言を布告
しました。
この政変により、ガラセ首相が追放(故郷の島に強制送還され軟禁
状態に)、議会も解散されました。
左が、前首相のガラセ氏、右が今回の「軍事クーデター」の首謀者バイニマラマ軍司令官。
スバの街中の、軍の検問所。
スバの街中で警戒中の兵士たちが、インド系のスナック売りからスナックを買っている様子。
今回の軍事クーデターは、政権奪取が目的のため、住民には暴動を禁止し厳しく取り締まったため、街中は、なんの混乱もなく住民生活は通常のままでした。
しかし、この以降、ニュージランド・オーストラリア・アメリカ・EUなどが、援助停止、文化スポーツ交流停止や入国禁止などの制裁を加えましたが、この間隙に中国からの援助が突出して来ました。
私は、島で軍事クーデターの発生以前から事態の成り行きを手に入る情報で見守っていました。
クーデター発生後、およそ2週間後、スバに出張して街の様子を観察しましたが、すべてが通常でしたが、国道の要所要所に軍の検問所が設けられて、一応車両の検査が実施されていました。
通行人には何の関心もないみたいでした、警備中の兵士に挨拶すると、向こうも笑顔で挨拶してくました。
2007年1月: バイニマラマ暫定内閣の首相に就任。
インド系のチョードリー前首相が、閣内の最重要ポストである、
財務・国家計画・公企業および砂糖改革大臣に就任。
2000年のクーデターの後からフィジーでの将来に見切りをつけた、
インド系人々の国外脱出が続き、この年のインド系の総人口比は、
36%まで落ち込みました。
2009年4月9日:高裁が軍事政権を違法と判断しました。
同月10日:イロイロ大統領が、憲法廃止し、バイニマラマ軍司令官を、暫定
政権首相に任命。
民政復帰の総選挙は、準備不足、選挙法の整備が先として、
2014年まで延期と発表。
同 年5月2日:太平洋諸島フォーラムが、民主的選挙の未実施を理由にフィジーの
メンバー資格停止を発表。
同 年9月1日:英連邦が、同じ理由で資格停止を発表。2006年当時、
フィジーが英連邦に、2010年までに民主選挙を実施すると
約束していたことによる。
日本も含めて対外的には、「2006年の軍事クーデター」が、過去3回のクーデターのフィジー民族系がインド系政権を追放するという従来の構図とは、正反対のクーデターであったということはほとんど理解されなかったと思います。
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