南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史「2000年5月の文民クーデター」(4)

7月13日の、人質解放と武装団の武器の放棄が、クーデター参加者放免の交換条件でした。


放棄した武器を説明する、クーデターの首謀者スぺイド、彼はこの後の裁判で死刑判決を言い渡されましたが、後日減刑で、終身刑となりました。



しかし、この協定に不満なグループ(噂ではクーデター参加者の約半数と聞いていました。)たちが、武器を持ったまま逃走し、スバ郊外の学校を占拠して立て籠もりました。
さらに、一部のグループは、本島から他の島々へ逃走したと情報が入りました。


国会議事堂だけが騒動の現場だったのが、いわゆる「手打ち」の後から、騒動が全国的に広がり始めました。


対外的には、クーデターは失敗して「スぺイド以下の武装団」は、武装解除したことになっていて、暫定政府は事件処理の作業を急いでいました。


まず、フィジーの全公務員の給料が、一律20%カットとなりました。


結果的に、武装団はリーダーを失った、ただの暴力集団となり他の島での暴力行為が伝えられてきました。
高級リゾートの占拠、地方の軍の武器庫の襲撃など・・・


8月下旬頃になると、スバのアメリカ大使館より頻繁に安否の確認の電話が入るようになりました。
それに、各島々を廻る貨物船から下船する人々が武器を携えてくるかもしれないので注意をとか・・・


島近くにスバからの貨物船が来た時は、私もボートに乗って監視に行くようにしました。


8月下旬頃、タベウニ島近くのリゾートが武装したグループに占拠されたとの情報が、アメリカ大使館からもたらされ、もし私が島を脱出したいなら海兵隊のヘリを送りますがと打診がありました。
東部地区の島々に滞在していたアメリカ国籍の人たちは、すでにナンディに退避したとの事です。


南の離島は、平時の時は理想的な「南国の楽園」を演出できますが、このような状態に置かれると、何とも不用心な立場となります、ボートで夜間に島の裏の海岸に漕ぎつけられたら簡単に上陸できますので・・・


LAの本社には、全ての状況を報告していましたが、本社より、ついにリゾートの閉鎖を指示されました。


私はその後、密かに撤退の準備をして、リゾートの状態を写真で記録を残したり、備品のリストを作成したりして、島に滞在しているフィジー人スタッフに留守の間の仕事を指示したりして・・・


9月中旬に、本島に出張と言う口実で、ボートでタベウニ島に渡り、タベウニの空港から国内線で前回のスタッフと共にスバに行きました。


スタッフを島に戻すため貨物船に乗せてから、会計事務所で書類整理と会計報告を済ませて、大使館に挨拶をして、ナンディに撤退しました。


ナンディで、約2週間ほど様子を見ましたが、状況が好転する見通しが立たず、本社の了解で日本に戻りました。


その後の情報で、11月頃、武装団の残党が立て籠もっていた学校に、フィジー国軍が強行突入して解放した後、地方の残党狩りを行い、何とか終息したのが、年末だったそうです。


次に私が、フィジーに戻ったのは、翌年の3月でした。


フィジーの観光産業には大打撃で、前年比90%減の観光客数に落ち込み、残りの10%は、バックパッカーと高級離島リゾートのお客さんだけだったそうです。


日本からは、前年は、4万人を超えて最高の観光客を記録していましたが、クーデター発生直後に、フィジー全域に危険度2、スバ地域に、危険度3が、発令されたためツアーが全部キャンセルとなり、その後、日本人観光客0が続きました。


デナラウのホテルなども閉鎖したり、営業する客室を半分に抑えたりと苦労している様子でした。


シェラトンが、当時の、1泊、650F$の部屋を、160F$に値下げして販売していました。


ナンディは直接の被害や住民の暴動すら発生しませんでしたが、観光客減のため普段より、ひっそりとした印象でした。


今回のクーデターの解決が長引いたので、ナンディ側、西部地区だけで独立したいと地元有志が、アメリカ政府に協力を申し入れていたそうです。


その後、欧米の観光客数は徐々に復活して、年間観光客数も当時の2倍近くまで成長して来ましたが、日本人観光客のフィジー離れが続き、直行便が廃止され、現在は年間7千人以下(留学生を含めて)になっています・・・



















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