南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「レブカから、スバへ遷都」

19世紀に入り、欧米人の太平洋進出が本格化し、19世紀後半には西太平洋の交易の中心として、レブカは白人定住者たちにより繁栄を謳歌していました。


しかし、背後に急峻な山が迫っており市街をさらに拡大することが困難な事情から彼らは早くからレブカに代わる港湾都市の建設を模索し、1861年にスバ、ナンディ、ガロア(カンダブ島)などを、調査して、スバが最適との報告書が出されていました。


当時、フィジー王ザコンバウは、アメリカ政府より、1850年前後に発生した事件の賠償金を執拗に要求されていました。これを知った、メルボルンの投資ブローカーの「ポリネシア・カンパニー」は、20万エーカーの土地とフィジー諸島における貿易権や金融権などの諸権利と引き替えに、この賠償金の肩代わりを申し出ました。
アメリカの砲艦外交に困窮していた、ザコンバウはこれを受諾し、その結果、スバ半島一帯の土地は、1868年に「ポリネシア・カンパニー」に譲渡されました。


ポリネシア・カンパニーは、1870年に、このスバの土地を白人開拓者たちに分譲しました。


白人開拓者たちは、当時将来性が見込まれていた、サトウキビ栽培を計画し、砂糖製造の工場も建設されましたが、気候的にも土壌的にもサトウキビ栽培の適地でなく、収穫も出来ずに程なく事業は失敗しに終わりました。


1877年頃までには、土地の権利は開拓民から、「マクェワン・アンド・カンパニー」に渡っていました。
土地を取得した、同社のトムソンとレンウィックは、「レブカ」から「スバ」への首都移転を植民地政府に熱心に運動を始めました。
そして、その交渉の結果、植民地政府に土地の3分の2を無償譲渡することで、1879年、正式に首都移転が決定しました。


植民地政府にとっては、取得した土地のなかの不用な土地を民間人に分譲することで首都建設資金の調達が可能となるし、会社側にとっても、首都圏の中の広大な残りの社有地が、大きなビジネスチャンスとして浮上してきました。


今も昔も、大きな開発行為の場合、土地の手当てと買収交渉に大きな負担を強いられるのが普通ですが、スバの場合は、広大な国有地が無償で手に入ったことで、その後のフィジーの首都としての発展と南太平洋最大の国際港湾都市として成長する可能性を最初から秘めていた事になります。


植民地政府は、1880年に一部国有地を民間人に売却して、レブカの商人たちの移転環境を整えた上で、1882年に、正式に、スバ(Suva) に首都を移転しました。


改装されながらも、今も使われている行政府(Government Building)。


グランド・パシフィック・ホテル。


カトリック・カテドラル。





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