南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「トンガ王・トゥポウ1世の野望」

フィジーの隣国、トンガでは19世紀に入ると、タウファア・トゥポウが統一王となり、1826年にトンガに派遣された、メソジストの宣教師の影響で、王は1831年に洗礼を受け、ジョージ・トゥポウと改名しました。そして1845年に、ジョージ・トゥポウ1世となりました。
トゥポウ1世はキリスト教(メソジスト)を広げる聖戦という形でトンガ全体を、1852年までに武力で平定しました。


当時、ポリネシア地域で活躍していた、双胴カヌーの復元図。


ヨーロッパ諸国から植民地化の手法を学んだ、トゥポウ1世はトンガによる植民地帝国の建設を開始しました。
目標は、隣国フィジーで、まず東部フィジーに進攻し、トンガの領地とし、さらにトンガの将軍エネレ・マアフは、フィジーのラウ諸島を征服し支配下に置きました。


まず、トンガは武力進攻に先立ち、1830年代にフィジーのラウ諸島にトンガ人キリスト教宣教師を宣教活動のため上陸させ、マアフはそれを政治的に利用し、宣教師保護の口実でラウ諸島を征服して行ったそうです。


この間、1844年には、イギリスのキリスト教宣教師がビチレブ島へ来島しました。


この時期のフィジーは、6つの王国が入り乱れての凄まじい抗争が、バウ族のザコンバウ王による武力制圧という形で終焉を迎えたところでした。



当時、フィジーで実際に使用されていた、双胴カヌー(上)とアウトリガーのカヌー。


1853年、トゥポウ1世が自らフィジーを訪問し、キリスト教化を進めました。これはフィジーの白人入植者と手を結び、フィジー全体をトンガが併合するためでした。
1854年、フィジー王ザコンバウが、キリスト教へ改宗しました。


その後、トゥポウ1世は、キリスト教徒保護の名目で数次にわたるフィジー介入を続けました。
しかし、フィジーに権益を持つアメリカが難色を示し、1858年には最新鋭の蒸気船の軍艦を派遣したため、一旦併合の動きを停止しました。


この時点で、フィジーにはイギリス領事が置かれており、イギリスの権益も及んでいました。
ところが、トゥポウ1世は、フィジーをあきらめておらず、1860年にイギリスがニュージランドで「マオリ戦争」を始め、1861年にアメリカが南北戦争で弱体化した機に乗じて、再びフィジーに圧力をかけ始めました。
しかし、結局はフィジー側の抵抗が強く、1867年には、フィジーに立憲王国が成立し、アメリカ、イギリス以外にもニュージランド、ドイツの干渉を受け、フィジーから完全に手を引くことになりました。

観光用に復元された、ポリネシアン双胴カヌー。


南太平洋地域に広まって来た、キリスト教の影響で、食人や一夫多妻などの習慣が無くなって来た事は良い面ですが、キリスト教の宣教師と共にやってきた当時の白人の商人たちの振る舞いや、新たな疫病、それに部族同士の戦いを根本的に変えた、銃砲類の近代兵器が及ぼした影響の方が重大な局面を南太平洋地域に与えた事は確実です。


ともあれ、トンガ王トゥポウ1世の野望は、やっと統一されたフィジーの民族の抵抗と、諸外国の干渉で潰えました。
しかし、当時トンガに占領されていた、フィジーのラウ諸島にはトンガ人(ポリネシア人)との混血の子孫が多数存在しているのも現実です。























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