南国フィジーで、のんびり退職生活

南太平洋のフィジー共和国で、のんびりと退職後の生活を送っています。フィジーの現地の色々な情報を発信します。

フィジーの歴史 「ヨーロッパ人との出会い」

各種のガイドブックでは、フィジーとヨーロッパ人との最初の出会いは、1643年のタスマンのフィジーへの到達となっていますが、フィジーのロツマ島の発見がさらに古いので、それから書き始めます。


「1606年」
ポルトガルの船乗り、ペドロ・フェルナンデス・ド・キロス (1560?~1614)が、幻の南方大陸「テラ・アウストラリス」(Terra Australis) の探検航海のため、スペインの「サン・ペドロ・パウロ号」で、1605年に、ペルーのカヤオ港から出航、ピトケアン諸島を経てさらに西に向かう途中に、現在の「ロツマ島」を発見し、ツアモコ島(Tuamaco) と命名しました。
その後さらに西に進み、ニューへブリデス諸島(現在のバヌアツ)に到達しました。


ロツマ島(Rotuma)は、ビチレブ島(本島)のナンディより、北に500km離れた、およそ東経177度、南緯12度30分に位置します。ちなみに、ナンディは、南緯17度50分です。


「1643年」
オランダの航海者、探検家の、アベル・ヤンスゾーン・タスマン (1603~1659)が、オランダ東インド会社の命を受け、幻の南方大陸探索の航海に、へームスケルク号とセーハーン号の2隻でバタビア(現在のジャカルタ)を出航し、オーストラリア南東方で、タスマニア島を発見した後、トンガまで到達しその後、フィジー諸島を通過している時に、フィジー諸島最北端にある珊瑚礁のリーフに船が乗り上げ座礁しましたが、なんとか北部の島(Vanua Levu) にたどりつき上陸して船を修理しました。


この写真の右上の、どれかのリーフで船が座礁し、左の大きな島(Vanua Levu) に上陸して船を修理したものと思われます。島のどこに上陸したのかは不明です。


船の修理後、ニューギニア方面に航海を続け、ビスマーク諸島を発見したのちバタビアへ無事到着しました。


「1774年」
イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図制作者、ジェームス・クック(1728~1779)、通称 キャプテン・クックが、英国軍艦レゾリューション号で、第二回目(1772年~1775年)の南方大陸探索航海で南極圏から南太平洋を探索中に、フィジーの東ラウ諸島のヴァトア島(Vatoa) に上陸、調査しました。


写真右上の小さな島が、ヴァトア島(Vatoa) です。西経178度15分、南緯19度45分に位置します。


これが、フィジー全図ですが、1606年のキロスの発見したロツマ島は最北端の島、1643年のタスマンはバヌアレブ島の最北部、1774年のキャプテン・クックは、最南端に近いヴァトア島を発見し上陸は果たしましたが、フィジー全土の踏査するまでには至りませんでした。



1789年4月28日、英国海軍史上に名を残す「バウンティ号の反乱」が起きたのは、トンガの近くフレンドリー諸島北西端タフォア島の西方を航行中のことでした。
首謀者は、航海長属のフレッチャー・クリスチャンで反乱者は25名、彼らはブライ船長以下19名を小型のボートに移して海上に放棄してしまいました。


彼らは、困難を乗り越え48日間に約6480kmを漂流し、6月14日、ようやくマレー群島のチモール島に辿り着きました。
ブライ船長は、漂流中にも航海日誌を毎日つけて、フィジー沖を通過しながらビチレブ島(フィジーの本島)を含む39の島々を確認しました。
この確認をもとにブライ船長は、フィジー諸島の最初の地図を作成しました。


その後、何人かの航海者たちによりフィジーのすべての島々が確認されましたが、ヨーロッパの人々にとって、フィジー諸島に住む人々は「凶暴」で「食人種」であるとされて、ヨーロッパ人の入植が始まるのは、さらに半世紀後の19世紀初めとされています。
















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